「また、彼らは自分たちの行なった忌むべきことによってわたしの聖なる名を汚したので、わたしは怒りのうちに彼らを滅ぼし絶やした。今、彼らにその淫行とその王たちの死がいをわたしのもとから遠くへ取り除かせよ。そうすれば、わたしは彼らの中に定めのない時に至るまで必ず住むであろう。」(エゼキエル43:8,9)
エゼキエルの神殿の幻は、将来のエホバへの崇拝に大きな変化を預言しているように思われます。エホバは神の民に対して怒りを表され、神の民は一時的に壊滅的な影響を受けるようです。しかし、広大なエゼキエルの神殿の幻が示しているように、神の民はエホバの是認を取り戻し、全地におけるエホバへの崇拝が復興します。そのために、神の民の側に調整が必要です。(エゼキエル43:8,9)
エゼキエルの幻の神殿は、神の民に起きるどのような出来事を預言しているのでしょうか。淫行とその王たちの死がいを取り除くとは、どのようにしなければならないことを意味しているでしょうか。
このことについて洞察を深めるには、聖書の他の預言書を調べる必要があります。将来神の民は、さまざまな政治の実体から迫害を受けることになっています。聖書の預言は神の民が南の王である大いなるバビロンからも、北の王からも迫害を受けることを預言しています。
まず、啓示の書は大いなるバビロンが神の民に対して流血を伴う迫害を行なうことを預言しています。(啓示17:6;18:24)また、ダニエル7章も、同様のことを預言しているように思われます。その預言によると、第四の獣に生じる小さな角が、「聖なる者たちに戦いをしかけ、それが彼らに対して優勢になる」ことを預言しています。(ダニエル7:21)この小さな角は、大いなるバビロンを表しているでしょう。(ダニエル7:11,12,22。啓示19:2)エホバ神によって「聖なる者たちを助ける裁きが下され」、小さな角は「全く滅ぼし去(られ)」ます。(ダニエル7:22,26)
また、聖書は、神の民が迫害を受け、全体としては全地で野獣に対する崇拝に屈してしまう時が訪れることを預言しています。啓示13章では、「第一の野獣」つまり主の日における政治組織が「全地」によって崇拝されます。そして、その野獣は、「聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され」ると述べられています。(啓示13:3,4,7,12)おそらく大患難、つまり世界大戦が起きる前に、国家主義が全地で強くなり、神の民は迫害に屈してしまうようです。
また、ダニエル8章の預言も神の民が北の王によって崇拝が妨げられることを預言しているようです。聖書は、大患難の前に、北の王の迫害のために、神の民が捧げる「常供のもの」、つまりエホバに対する崇拝と奉仕が一時的に取り去られることを示しているようです。(ダニエル8:11)
ですから、聖書は大患難の前に神の民が北の王からも、南の王からも迫害を受け、特に北の王の迫害のために全地で行なわれる組織的なエホバへの崇拝と奉仕が中断させられることを示しています。
エゼキエル書はこのようなことが生じることをエホバが許された理由を説明しています。「イスラエルの家は、彼らもその王たちも、その淫行やその王たちが死んだ時の死がいによって」エホバの聖なる名を汚したからです。(エゼキエル43:7,8)
聖書は比ゆ的な淫行とは、偶像崇拝や政治国家に頼ることを意味することを示しています。(エゼキエル23::11,14)ですから、エホバへの崇拝が中断させられるのは、神の民がエホバに対する忠節な崇拝という点で失敗し、偶像崇拝とりわけ、国家に対する崇拝に陥ってしまうからです。それで、神の民は、南の王に対する崇拝にも北の王に対する崇拝にも陥らないように気をつける必要があります。
国旗掲揚-国家に対する崇拝に気をつけましょう
また、「王たちの死がい」に取り除かなければならないとは何を示しているでしょうか。聖書は、「ダビデとその胤」すなわちダビデの子孫のイスラエルの「王たち」を、「油そそがれた者」と呼んでいます。(詩編18:50)ですから、「王たちの死がい」を取り除くべきだというのは、死んでしまった油そそがれた者に対する崇拝に、気をつけなければならないことを示しているでしょう。
たとえ、油そそがれたクリスチャンであっても、聖書的に間違ったことを言ったりしたりすることがあります。それは、私についても言えます。またとりわけ、世界情勢が十分に進展していない時、その聖書解釈が十分進んでいない時は、聖書の理解に関しても、完全に正しいわけではありません。そのことも、私の聖書の解釈についても言えると思います。
しかし、とりわけ過去に死んでしまった油そそがれたクリスチャンの聖書解釈に執着しているならば、比ゆ的に王たちの死がいを崇拝していることになるのではないでしょうか。聖書のより正しい解釈は生きている油そそがれたクリスチャンによって行なわれるはずです。聖書の解釈が進んだならば、過去の油そそがれたクリスチャンの聖書の解釈は捨て去る必要があります。
ですから、エゼキエルの神殿の幻は、野獣の崇拝の圧力が強くなっても、エホバへの崇拝を断固として続けなければならないこと、また過去の油そそがれたクリスチャンに対する崇拝にも陥らないようにしなければならないことを教えています。
しかし、同時に、エゼキエルの神殿の幻は、それらの試練を神の民が乗り越えて、全地でエホバ神への崇拝が復興されるという希望を指し示しています。私たちは、これからもエホバへの崇拝を確固として継続していきましょう。
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