マタイ24章・続 飾りの地と飾りの山 | ヨハネのブログ

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「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。」(マタイ24:15,16)

 




終わりの時に関するダニエル11章の預言の中には、神の民に関して、「飾りの地」と「飾りの山」という二つの呼称があります。これは神の民の中で、イエスの助言に従って、拠点を山に移した神の民と、南の王の領域から逃れることをしなかった神の民がいることを意味しているのではないでしょうか。

 

私は、エホバの証人は、真のキリスト教の特徴を示していると思いますが、現在、エホバの証人は、大いなるバビロンは偽りの宗教組織だと解釈しており、山に逃げることも、比ゆ的な組織の山に逃げることを意味していると解釈しています。例えば、ものみの塔1999年5/1号には、「論理的な結論として,イエスの語られた逃げる行動は地理的な意味においてではない,と言えます。・・・わたしたちは,自分の避難所が今後もエホバとその山のような組織にあることを確信していなければなりません。(サムエル第二 22:2,3。詩編 18:2。ダニエル 2:35,44)わたしたちはそこで保護を受けることになるのです。」と述べています。

 

しかしながら、私は、いつかエホバの証人もしくは、その一部が大いなるバビロンの実体を見極め、山に逃げることが文字通りであるという解釈を受け入れるときが来ると思います。なぜなら、エホバはご自分の義の基準を守っている神の民をお見捨てにならず、正しい聖書の解釈を理解するように助けられるはずだからです。

 




それで、もし、北の王が「飾りの地にも入(る)」ということが予告されていたとしても、大いなるバビロンの中のエホバの証人が決して組織的な行動をとらずに大いなるバビロンから逃れないということを預言しているわけではないと考えています。

 




なぜなら、預言は私たちがそれから警告を受け、益を得るために記されています。たとえエホバの証人の全体もしくは、その一部が大いなるバビロンから出て、山に逃れる組織的な行動を取ろうとしたとしても、どうしても大いなるバビロンに残る部分が出て来るでしょう。それでやはり神の民が、「飾りの地」と「飾りの山」というふたつのグループに分かれる事になるでしょう。つまり、聖書に忠実な解釈につき従うグループと従来の古い解釈にとどまるグループに分かれることになると思います。

 




神の民が山に逃げるならば、どのような利点があるでしょうか。大患難の時は、北の王と南の王が正面衝突をする時となるでしょう。その時は世界情勢が緊迫しているためにエホバの民は世界のどこに住んでいても中立の立場を脅かす問題や迫害が起きていることでしょう。しかし、南の王の領域、つまり大いなるバビロンから出て、山に逃れることによってそうした問題を逃れられるでしょう。

 



それから世界戦争が起きるならば核兵器を使う国家も出て来るでしょう。山や田舎に逃げていれば、核兵器やミサイルの攻撃による都市の爆発と破壊を避ける助けになり、命を守ることになるでしょう。

 



さらに、戦中戦後はどこでも食糧不足になるのが普通なので山や田舎で作物を作るなら、その問題にも対処する助けになるでしょう。山に逃げるならば、できる限り自給自足をすることができるでしょう。

 




そして、山や田舎での自給自足の生活は確かに楽園での生活の準備になるでしょう。新しい天と新しい地のもとで人々は基本的に自給自足の生活をすることが預言されていました。こうあります。「彼らは・・・必ずぶどう園を設けてその実を食べる。・・・彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない」(イザヤ65:21,22)新しい体制が始まるならば、自然の豊かな山間部や田舎から楽園を広げて行く事ができるでしょう。

 




大いなるバビロンが偽りの宗教組織ではなく、アメリカ合衆国であり、山に逃げるとは比ゆ的な意味ではなく、実際の行動を意味しているという教義の変更はものすごく大きな教義の変更です。それを受け入れるには、神の言葉に対する忠誠と今までの間違いを認める謙遜さと柔軟性が求められるでしょう。

 



しかし、神の言葉に対する忠誠と謙遜さは報われます。それによって大変災から命を守られることになるでしょう。それで、私たちは、何が聖書の正しい解釈かを慎重に検討する必要があります。

 


 
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