日輪の子 | 酒場人生覚え書き

日輪の子

2日の『吉祥のお裾分け』( http://ameblo.jp/lionman/entry-10063554306.html

真白き富士の嶺の歌詞そのままの情景が撮れましたので掲載しておきます・・・・い

までもこの歌を口ずさむと喉の奥がつまり、鼻がツンとしてきます・・・・

と書いたところ“何故でしょう?”とご質問の方がおられました。



稲村ヶ崎公園から富士山に向かって、海を見渡すかたちで二人の少年が抱きあっている

ブロンズ像があります。

これが『ボート遭難の碑』です。



その台座には『真白き富士の嶺』の別名『七里ケ浜の哀歌』と、事件の概要を彫りこ

んだ金属板がはめこまれいるのですが、何故か作詞者の“三角錫子先生”(当時鎌倉

女学校の教師)の名前は見あたりません。


かっては小学校唱歌でもありましたから、ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、こんな歌

です。

    真白き富士の嶺 


   真白き富士の根 緑の江の島
   仰ぎ見るも 今は涙
   帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
   捧げまつる 胸と心


   ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
   風も浪も 小さき腕に
   力もつきはて 呼ぶ名は父母
   恨みは深し 七里が浜辺

            〈碑文ではここまで〉 


   み雪は咽びぬ(むせびぬ)風さえ騒ぎて
   月も星も 影をひそめ
   みたまよ何処に(いずこに)迷いておわすか
   帰れ早く 母の胸に


   みそらにかがやく 朝日のみ光
   やみにしずむ 親の心
   黄金も宝も 何しに集めん
   神よ早く 我も召せよ


   雲間に昇りし 昨日の月影
   今は見えぬ 人の姿
   悲しさ余りて 寝られぬ枕に
   響く波の おとも高し


   帰らぬ浪路(なみじ)に 友呼ぶ千鳥に
   我もこいし 失せし人よ
   尽きせぬ恨みに 泣くねは共々
   今日もあすも 斯くてとわに



台座にはめ込まれた銅板の碑文にはこのように書かれています。


みぞれまじりの氷雨降りしきるこの七里ヶ浜の沖合で、ボート箱根号に乗った

逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難 転覆したのは1910年(明治43年)

1月23日ひるさがりのことでした。
前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をわかせました・・・・がそ

の遺体が発見されるにおよんで、さらに世間の人々を感動させたのは、彼ら

の死に臨んだときの人間愛でした。
友は友をかばいあい 兄は弟をその小脇にしっかり抱きかかえたままの姿で

収容されたからなのです。
死にのぞんでもなお友を愛し はらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は

生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか。
この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに、永久にこの美しく尊い人間愛の

精神を賞賛するために建立したものです。


                1964年5月17日
                              逗子開成校友会
                              鎌倉校友会
遭難者の氏名


牧野久雄  笹尾虎次  谷多操  小堀宗作
木下三郎  奥田義三郎  徳田勝治  徳田逸三
内山金之助 松田寛之  宮手登  徳田武三


とくに五年生の徳田勝治と、逗子小学校高等科二年生の徳田武三兄弟の最期で

碑文にもあるように兄の勝治は武三を抱きかかえ、弟の武三は勝治に抱きついた

ままの姿だったのです。

兄は溺れかけた弟を助けようとしたものの、ついに力つきてしまったその姿が、捜索

に当たった人々の涙を誘わずにはおかなかったといいます。





これがモチーフとなり昭和39年(1964)この場所に「真白き富士の嶺」(菅沼五郎・制

作)が建てられたのですが、少年たちの足もとにはむなしく折れたボートの櫂が横たわ

っています。



この記事のため昨夕ブロンズ像のところまで行ったのですが、徳田兄弟は夕日の輝く

帯の中にシルエットとなって立っていたのですが、やがて兄の勝治は高く差し上げた

右手に日輪を受け止め、やがて遠くかすむ伊豆連山の向こうに投げ返したかのようで

した。



四季折々に異なった情趣で立つ兄弟像ですが、燃える夕日を手で受けるのは遭難し

たこの1月の季節だけだと思います・・・・まるで“日輪の子”となって蘇るかのように。