から続きます。
「エホバのご意志を行なうための組織」
からの引用を続けますが、内容的には少し後戻りします。
というのも、もともと、排斥・断絶における「避け」が、どのように組織として決められているのか、ということをこの本の中から引用を続けてきましたが、今までの引用部分の少し前に非常に気になることが書かれていました。
そこはぜひお知らせしたいと思います。
「無秩序な人々に特に注意する
テサロニケの人々にあてた二番目の手紙の中でパウロは、無秩序な歩み方をしていて、会衆内で良い立場にあるとみなされるなら不健全な影響を及ぼしかねない、ある人々について警告を述べました。
パウロはテサロニケのクリスチャンたちに、
「あなた方がわたしたちから受けた伝統にしたがわないで無秩序な歩み方をするすべての兄弟から離れなさい。」
と訓戒しました。
そして、次のように書いてその言葉の意味をさらに明らかにしました。
「この手紙によるわたしたちの言葉に従順でない人がいれば、その人に特に注意するようにし、交わるのをやめなさい。
その人が恥じるようになるためです。
それでも、その人を敵と考えてはならず、兄弟として訓戒し続けなさい。」
テサ3:6,14,15。
追放の理由となるような由々しい罪を習わしにしていないまでも、クリスチャンを律する神の基準に甚だしい不敬を表わす人が時折います。
これには、甚だしく怠惰であったり批判的であったりする、また無益なことを語って絶えず
「自分に関係のないことに手出ししている」
などの事柄が含まれるでしょう。
(テサ二3:11)
あるいは、他の人を物質面で利用しようとたくらんでいる人や、ふさわしくないことが明らかな娯楽にふける人も含まれるでしょう。
無秩序なその行動は、聖書の助言を当てはめて愛を表わすことによって周囲の人が対処できるような軽微なものではありません。
むしろそれは、会衆に避難をもたらし、他のクリスチャンにも広まり得る重大な性質のものです。
繰り返し訓戒を与えた後にも、その人が、十分に確立されている聖書の原則を執拗に無視するなら、長老たちは会衆に対する話をして、そのような無秩序な振る舞いについて適切な助言を与えるべきだと判断するかもしれません。
長老たちは、警告の話が必要なほど重大で憂慮すべき状況かどうかを、道理と識別力を働かせて見極めるべきでしょう。
その話の中では無秩序な人の名前は述べません。
それでも、その話で述べられる状況に気づく人たちは注意を払い、そのような人との社交的な接触を制限するでしょう。
会衆の忠実な成員の愛のこもった関心と毅然とした態度は、恥じて悔い改めるように無秩序な人をまさに動かすものとなり得ます。
その人が無秩序な歩みを捨てたことが明らかになったときには、その人を特に注意すべき人として扱う必要はもはやないでしょう。」
長い引用となりました。
ここでは「無秩序な人」との交友に気をつけるように、ということが書かれていますが。。。
ここでいう
「無秩序」
とは、いったいなんでしょうか?
・神の基準に対する甚だしい不敬
・甚だしく怠惰であったり批判的である
・他の人を物質面で利用する
・ふさわしくないことが明らかな娯楽にふける
実にさりげなく、巧妙に
「批判的である」
という言葉が滑り込まされていますね。
組織にとってなにより警戒したいのは、この
「批判的である」
成員なのでしょう。
そして、これらの無秩序な人の名前こそ明らかにしないまでも、普段の話の中に
「その状況がわかる人にはわかる」
形で、注意を促し、気づいた人たちはその該当者との社交的な接触を制限するわけですね。
これは、排斥の「避け」ではありませんが、実質的に接触を制限されてしまう
「会衆内排斥」
の状態になることが考えられます。
心当たりのある人にとって、この状況はどう受け止められるのでしょうか。。。
ある日、なんとなく自分に向けられたような話がされて、そして会衆の他の成員からよそよそしく扱われる。。。
なんとも、居心地に悪い、精神衛生的に悪そうな状態が想像されるのですが。。。(・_・;)