こんにちは。

 

今回は、旧約聖書に出てくる二人の王、サウルとダビデ、その両者の違いについてとダビデと主イエスの関係について書きます。また、それに派生して学ぶべきことについても書きます。

 

サウルとダビデは、どちらも神に選ばれ、預言者を通じて油を注がれ、紀元前の時代にイスラエルの王となった人物でした。しかし、この両者の人生の歩み、最期、そして、その後の展開も明暗がはっきりと分かれました。サムエル記をきちんと読めば分かりますが、ほとんどの人は、この話をただの歴史上の話と思って簡単に片付けます。そして、彼らの違いに目を留めることもありません。しかし、ダビデとサウルの違いについて、きちんと理解と学びを得ない者は、にわかクリスチャンです。彼らは知識として知っているだけで、何も学んでいないからです。

さて、先に王位についた、サウルから概略を書きます。詳細は聖書をお読みください。

 

当時、イスラエルに王というものがありませんでした。預言者サムエルが高齢になり、二人の息子は賄賂を受け取って裁きを曲げるような不正を行う者(サムエル記上8:3)で、後継者に相応しくありませんでした。サムエルは、イスラエルの民から正しい裁きを行う王を求められました(サムエル記上8:5)。そのような渦中、サウルは、預言者サムエルから油を注がれ、神の嗣業の民の指導者とされました(サムエル記上10:1)。その後、明るい未来が約束されたように思えますが、実際は違います。サウルがイスラエルの初代王に就任後、2年後にはもう崩れ始めます(サムエル記上13:1以降)。

理由は、神からの命令に背いて、自分自身の判断で焼き尽くす献げ物をささげるという勝手なことをしたからです(サムエル記上13:9以降)。その結果、サウルの王権は続かないとサムエルに言われました(サムエル記上13:14)。

アマレク人との戦いに際し、神はサムエルを通じて、サウルに指示を出します。神がアマレク人に怒りを発し、罰するためにアマレクに属するものを一切容赦せずに滅ぼし尽くせという命令でした(サムエル記上15:1~3)。ところが、サウルは、上等なものを惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くしました(サムエル記上15:9)。これを受け、神は、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」とサムエルに打ち明けられました(サムエル記上15:11)。その後、サムエルはサウルと会い、サウルが何故神の言うことに忠実に従わないのかと尋ねると、神への献げ物にするために取って置いたと言い訳をしました(サムエル記上15:15)。サムエルは、そのような言い訳を断罪しました(サムエル記上15:17以降)。要するに、いかなる人間の動機、人間の目からすれば善行に見えることでも、神の目にとっては悪とされるのです。神が絶対的に正しいのであり、その命令に従わないことはいかなる理由があろうとも、言い訳をしようとも神の前では罪でしかありません。

その結果、神はイスラエルの王国をサウルから取り上げ、サウルよりすぐれた隣人にお与えになると仰いました(サムエル記上15:28)。この隣人こそが、ダビデなのです。ここでサウルよりダビデがすぐれたと神は仰っていることから、神はダビデの将来をすべて見通されていたことが分かります。普通の人間なら、単なる羊飼いに過ぎなかったダビデがサウルよりすぐれた王になるなどと夢にも思わないでしょうから。

 

サムエルは、サウルを見限り、神がエッサイの息子(ダビデ)を見出したので、油を注ぐために出かけました(サムエル記上16:1~4)。そして、サムエルは神の命令どおりに、ダビデに油を注ぎ、ダビデはその日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになりました(サムエル記上16:13)。そのため、主の霊はサウルを離れ、代わりに、主から来る悪霊がサウルを苛ませるようになりました(サムエル記上16:14)。これは私が過去記事「罪について」で述べたとおり、信仰から脱落する者は、信仰に入る前よりももっと悪くなる(ペトロ二2:20)と同じ意味です。

サウルは悪霊に苦しみ、竪琴でも聴いて気分を良くするために、竪琴の名手を探し、ダビデを雇い入れました(サムエル記上16:14~23)。ダビデは神への信仰を持って、小石と石投げ紐だけで、猛者ゴリアトと戦い、剣や槍を使わずに見事に勝利しました(サムエル記上17章)。その後、ダビデは行く先々で戦勝を収め、サウルの息子ヨナタンにも愛されました。しかし、サウルは娘ミカルがダビデを愛し、主がダビデを共におられることに対して恐れを抱き、生涯ダビデに対して敵意を抱きました(サムエル記上18章)。それ以後、ダビデはサウルに命を狙われ、執拗に追いかけられるようになりました。その後、逆に、ダビデがサウルを殺す機会もありました。しかし、ダビデは、主が油を注がれた方に手をかけることを決して許されないと知っており、自分の兵にサウルを襲うことを許しませんでした(サムエル記上24章)。それから、サウルはダビデの命を狙ったこと、ダビデが悪意に対して善意で報いたことに感銘しましたが、表面的なものでした。ダビデはサウルから激しい迫害を受け、逃げ回るしかなく、荒野で放浪生活を強いられました。

その後、ペリシテとイスラエルの間で戦争になり、サウルは矢を受けて深手を負いました。無割礼のペリシテ人に殺されるより、身内の従卒に殺された方が良いと言いましたが、その従卒はそれができず、結果、サウルは自害しました。サウルの死後、その従卒も自害し、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアも討ち取られました(サムエル記上31章)。

サウルの死後、ダビデは30歳でイスラエルとユダの王となりました。その後、40年間王位にありました(サムエル記下5:4)。

ダビデはサウルと違い、完璧であったのかといえば、そうではありません。

ダビデは、姦淫の罪を犯します。ウリヤの妻バト・シェバを見て気に入り、子供を作ってしまいました。ダビデはそれを誤魔化すためにウリヤに家に帰るように勧めましたが、ウリヤは職務に熱心で家に帰って妻と寝たりはできないと言いました。ダビデは、これを忌々しく思い、ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、ウリヤを残して退却して戦死させろと部下に命令を出しました。その結果、ウリヤは戦死し、ウリヤの妻バト・シェバは嘆きました。喪が明け、ダビデはバト・シェバを自分の妻にしたのでした(サムエル記下11章)。

その後、預言者ナタンがダビデを叱責しました。ダビデは罪を犯したと自白し、神はダビデを赦しましたが、不倫の結果生まれた子の命は取られました。しかし、その後でまた男の子を授かり、それが後のソロモンでした(サムエル記下12章)。その後、ダビデの長男アムノンが同じダビデの娘タマルを襲って近親相姦をし、ダビデの三男アブサロムがこの事件に怒り、アムノンを殺害しました(サムエル記下13章)。アブサロムは後にダビデと敵対して戦い、戦死しました(サムエル記下18章)そして、時は流れ、ダビデはソロモンを戒めて眠りにつきました。

 

簡単な概略を説明しました。詳しくは、きちんと聖書を読んでください。さて、これからが本題で、サウルとダビデの違いについて書きます。

 

サウルとダビデの違い

 

①神に忠実か否か

上述したように、サウルは神の言うことを聞かず、自分勝手な判断で行動したことで神の怒りを買い、王位から退けられました。主の霊がサウルから離れた後、サウルは悪霊に悩まされ続け、耐えきれずに神が罪と定めている口寄せに頼ったりもしました(サムエル記上28章)。サウルはどこまでも自分のことばかり考えており、神の命令、戒め、掟を守らないとどうなるのかということがはっきり分かる例でした。重い罪でもないなら、ちょっと位いいじゃないかとあなたは思いますか。そのような考えでいる人は、にわかクリスチャンであり、安息日を蔑ろにするのです。過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で申したとおり、妥協は無いのです。

また、不安になるのもいけません。不安になるというのは、どこかで神に忠実になっていないということをあなた自身が分かっているからではないでしょうか。不安を抱くのと畏れを抱くのは同一ではありません。サウルは、不安ゆえに自分勝手な行動に出ました。そのような状態では、神への絶対的な信頼を保つことはできません。これが致命的な欠陥と神の目には映り、王権をサウルから取り上げることをお決めになりました。

反対に、ダビデは、ゴリアトと戦った時、第三者の目からすれば所持する武器も違うし、体格差も歴然としており、誰もダビデが勝てると思っていませんでした。しかし、ダビデは信仰の力で勝ちました。ダビデは目の前のゴリアトを見ずに、神だけを見ており、主に対する信仰によって神が共におられるので自分に勝利があることを確信し、それを宣言しました。そして、それが現実のものとなりました。ダビデは、神を信頼して忠実に行動したのです。目に見える事実に屈するのではなく、信仰によって事実と向き合うことが重要です。この戦いだけではなく、その後もダビデは罪を犯しはしたものの、神に忠実であり続けました。

イエスも「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)と仰ったとおりです。

 

②畏れる対象を間違えた

サウルは人を恐れる弱さを持っていたことが、人々を導く立場である王としての資質に欠けていました。サムエル記上13章のペリシテ人との戦いにおいて、自分から人々が離れていくのを恐れたサウルはサムエルを待つことができずに、他の人間に良く思われようと自分勝手な行動で人々の心を繋ぎとめようとしました。戦いの勝利を保証するのは主なる神であり、神に対する信頼の欠如は、人を恐れるところから来ています。

これは、私の過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」でも申したとおり、真のクリスチャンは、人間ではなく、神を畏れる者ということです(マタイ10:28参照)。前々回記事でも、人ではなく神を畏れる者と申しました。ここに同じ学びがあります。

サウルは、神よりも人の反応や評判を気にしたので、およそ神の目には適いませんでした。

反対に、ダビデは神に逆らってまで人の評判、評価を気にして行動することはありませんでした。ダビデは次期王として油を注がれたにも拘らず、自分の命を狙うサウルを手にかけることはしませんでした。それは、ダビデが神の絶対主権を知っており、神が選んだ王であるサウルを人間の手で亡き者にすることは許されないことだと知っていました。サウルだけではなく、サウルの親族にも配慮を見せました。まさに、イエスが教えられた敵を愛する精神です。これは過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」で説明しました。ダビデは、神を信頼し、すべて神に委ねていたからです。その結果、ダビデはサウルから逃げていたときも、常に逃げ道を神が用意してくださいました。サウルの息子ヨナタンに匿われたり、サウルの娘でダビデの妻ミカルもダビデをサウルの追っ手から逃し、その後も命を狙われ続けても神はダビデを守られました。サウルが死んで、ダビデが30歳で王になる前、20代はこのような苦難の中を生きました。ダビデは試練の中、神に守られる経験をしました。これは過去記事「携挙の真実」で言及したとおり、ヨハネの黙示録3:10にあるとおり、神から守られると同じことです。ただし、同聖句にあるとおり、忍耐強く神の掟、戒め、教えを守った者だけが対象ということを忘れないでください。誰でもではありません。

 

③真の悔い改めができたか否か

罪の重さでいえば、サウルとダビデを比較すると、ダビデは姦淫と殺人を行い、サウルは神の命令に忠実にならなかった、口寄せに頼った、ダビデの命を狙う殺人未遂だけで、ダビデのように姦淫や間接正犯という形で殺人はしませんでしたので、罪の重さでいえば、サウルの方が軽いのです。

要するに、罪の軽重で神は救いを判断されないということです。人間の法律論でしか罪を考えない世に属する人間からすれば、殺人犯のような重い罪を犯した者は救われなくて、ちょっとした万引きによる窃盗犯の方が罪が軽いから救われる可能性が高いといった議論は無駄でしかありません。何も分かっていない証拠です。

 

罪を犯した後、サウルは真に悔い改めませんでした表面的には自分の非を認めるような言葉を言いましたが、行動が伴いませんでした。ダビデにも謝ったりもしました(サムエル記上26:21)が、結局命を狙い続けました。サウルが悔い改めようとしてもできなかったのは、神から見放され、悪霊の影響を受けていたからです。神に見放されると、口先や心の中では、自分は悪いことをした、罪を犯したと認識しつつも、真に悔い改める行動ができなくなります。サウルからこの救いの恩恵期間の終了後の姿、または、信仰から脱落した後の姿が分かります。恩恵期間については過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」にて、信仰から脱落した後については、過去記事「罪について」で言及済です。

過去記事でも述べましたが、即ち、偽預言者や偽善者、偽教師たちと、彼らに騙されて抜け出せないにわかクリスチャンが、このような状態です。

 

反対に、ダビデは、姦淫と殺人の罪を預言者ナタンに咎められ、それに対してダビデは王という立場でも高慢にならず、真に悔い改めました(サムエル記下12:13、詩編51章)。しかし、罪の報いは免れませんでした。上述したように不倫の結果生まれた子の命は取られ、ダビデ自身の息子たちと争いを生じたりもしました。これが自ら蒔いたものを自分で刈り取ることになる(ガラテヤ6:7)と過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」で説明したとおりです。

ダビデは、サウルとは違い、神にひれ伏し、心から罪の赦しを乞い、悔い改めました。打ち砕かれ悔いる心を神は侮られないのです(詩編51:19)。要するに、自分を捨てるということです。自分は偉い、自分が絶対的に正しいというな高慢が神が忌み嫌うことがよく分かるはずです。このことも複数の過去記事で何度も言ってきました。

 

本物の信仰を持たない世の権力者は例外なくダビデとは逆で、何をしても許されると勘違いしています。そして、間違った行為であることに気付くこともなく、又は間違っていると知っていながらも故意に彼ら自身の利益や保身のためには目をつぶり、明らかに悪い行いが露見しても認めずに必死に隠そうとしたり、ひたすら間違った道を歩み続けています。しかし、これも神の御心で彼らがそうするのですから、仕方がないのです。彼らは、彼ら自身で気付かないうちに神の定めた計画を遂行し、この世では甘い汁を吸っていい気になって、悪事をやめません。その先に待つ死後の運命は言うまでもないことです。これがイエスの仰る既に報いは受けているという意味です。もし、仮に世の権力者全員が神に従順で正しい人しかいないとすれば、聖書どおりではないことになります。しかし、それは聖書を読めば分かるとおり、有り得ないことです。そういう訳で、世の権力者たちが悪事を行うのは仕方のないことです。

 

神は聖書に書いた預言どおり、世を動かしておられます。過去記事で「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます」と題したのもそれが理由です。決して、世の権力者たちが世を動かしているのではありません。世の権力者たちは自分たちが世界を動かしていると勘違いしているでしょうが、それは誤りです。彼らの自由意志に見えるものも、すべて神の御手の中にあります。彼らはサタンや悪霊を崇拝し、悪をするように導かれているのです。神にとって、サタンや悪霊のすることもお見通しなのです。真実から目を逸らさないで備えるように言っているだけです。

海外移住の話も神の導きで機会に恵まれるのならと条件を付加しました。機会があり、そうすることが神の御心かもしれないのに、世俗の欲が原因でその欲を満たすために頑として日本に居残ることは義の行為とは思えません。もし、機会がなければ日本で信仰を守り続けるべきです。機会が無い、即ち、神の導きが無いのに保身だけを考えて逃げるように出て行くだけでは悲惨な末路になるかもしれないからです。結局、私が言いたいのは、神の御心に従うべきだということです。偽預言者RAPTが言うように義人の祈りで世界を変えるとか(もっとも、RAPTとRAPT信者は義人ではない。)、他にも多数存在する陰謀論者も例外なく世の権力者たちの悪事を止めようとか、阻止しようと人々に呼びかけて必死になっています。これらの行為の意味をもっと深く考えてもらいたいです。各自備えることは必要ですが、それ以上のことはするべきではありません。サタンの行為と同じ反逆です。

しかし、権力者に何でもかんでも愚直に従うのはいけません。複数の過去記事で再三申してきたとおり、神の掟、戒めや律法に反して、人間であるローマ教皇とアメリカ中心で作られる新世界秩序(NWO)とそれに沿った各国の定める法律等に従う人間は、獣の刻印を押されることには注意が必要です。真のクリスチャンが迫害される点は、まさにこの点にあるからです。

 

話が少し逸れましたが、サウルとダビデの違いは理解いただけましたでしょうか。サウルは自身と子供も主に打たれ、血統が絶たれました。しかし、ダビデはその子ソロモンをはじめ、その後も続きました。それだけでなく、重要なのは、以下のことです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 7章42節

メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。

 

ご存知のとおり、今となっては、新約聖書があるおかげで、イエスがこのメシアであることは明白ですが、当時は新約聖書が無く、旧約聖書だけしかありませんでした。よって、ダビデの子孫からメシアが生まれることは当時の人たちは知っていましたが、誰がメシアかをめぐって論争していました。

この新約聖書で明白なとおり、イエスはダビデの子孫ということです。しかし、血統という点では厳密には、イエス自身ではなく父親ヨセフがダビデの子孫でした。イエスは、聖霊によってマリアの胎に宿ったのであり、血縁関係はありません。当時、イエスが聖霊によって生まれたことなど知らない第三者から見れば、ダビデの子孫の父親ヨセフと母親マリアの子供がイエスであり、必然的にイエスもダビデの子孫ということです。

イエスがダビデの子孫というだけでなく、両者の生涯も非常に似ていることも注目すべきです。

 

ダビデは、ベツレヘムで生まれ、育ちました(サムエル記上17:12,15)。そして、30歳でイスラエルの2代目の王になり、40年間王位にありました(サムエル記下5:4)。王位にあるとき、三男のアブサロムに反逆され(サムエル記下15章~18:18)、ダビデの友であったアヒトフェルにも反逆されました(サムエル記下16:15~17:23)。

しかし、アブロサムは頭が木に引っ掛かって宙吊りになり(サムエル記下18:9)、心臓を突き刺されました(サムエル記下18:14)。一方、アヒトフェルは自分の提案が実行されなかったことから首を吊って死にました(サムエル記下17:23)。

ダビデは、ダビデの町エルサレムで死に、そこで葬られました(列王記上2:10)。

 

イエスは、ベツレヘムでお生まれになり(マタイ2:1)、およそ30歳で宣教を始められました(ルカ3:23)。そして、弟子をお選びになり共に過ごされました。その12弟子の1人であったイスカリオテのユダに裏切られ、逮捕されました。イエスが有罪判決を受けたのを知って後悔したユダは首を吊って死にました(マタイ27:3~5)。

イエスはエルサレムで十字架にかかってお亡くなりになりました。イエスの公生涯は約40か月(3年半)でした。

 

いかがでしょうか。生まれも死んだ場所も同じ、人生の転換期も同じ、人生の途中で裏切りに遭うのも同じ、活動期間も同じでした。これは偶然ではありません。

また、イエスが十字架にかかった時に仰った言葉とその周囲の様子について、ダビデの詩編と同じものがあることをご存知でしたでしょうか。まず、イエスが仰ったことと詩編の比較です。

 

イエスが十字架で仰った言葉

①わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)

②渇く(ヨハネ19:28)

③成し遂げられた(ヨハネ19:30)

④父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)

 

詩編

①わたしの神よ、わたしの神よ

 なぜわたしをお見捨てになるのか。(詩編22:2)

②口は「渇いて」素焼きのかけらとなり(詩編22:16)

③「成し遂げて」くださった恵みの御業を(詩編22:31-32)

④まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。(詩編31:6)

 

いかがでしょうか。同じことであることが理解いただけたと思います。これは、主なる神の救いが十字架によって成就することを明確にイエスがお示しになるためでした。詩編22編は、キリストの受難と主の救いについて預言的性格を持った箇所です。その証拠に、「ダビデは預言者だった」(使徒言行録2:30)とあるとおりです。天の父なる神がそのように設定されたということです。ダビデにその言葉を発するようにされ、イエスがそれを身をもって実現されたのです。預言だったかどうかは、神からの言葉を預かり、それが人間によって発せられ、それが後に現実に起こらないと預言ということにはなりません。ダビデは、ダニエルやイザヤ等の預言者とは違い、未来のことを明確に預言する者ではありませんので、そこは勘違いしないでください。聖書上、ダビデは、系図上自分の子孫であるイエスの言動を預言したのです。

 

ついでに、キリストの受難の時の周囲の様子の比較です。

 

新約聖書

①他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。(マタイ27:42,43)

②彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い(マタイ27:35)

 

詩編

①主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。(詩編22:9)

②わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く(詩編22:19)

 

上記のとおり、周囲の様子までダビデの詩編どおりです。神の御業には驚かされます。

 

また、イエスがダビデの子孫であることは、旧約聖書で神が約束されたことなのです。以下の聖書箇所が証拠です。

 

旧約聖書 サムエル記下 7章12~13節

あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

 

上記箇所は預言者ナタンがダビデに対して神の御言葉を告げた場面です。これは歴代誌上17:11~14にも同じことが書かれています。これらの箇所を読んだだけでは、ダビデの王権が子孫代々続くと簡単に思って済ませるところでしょうが、実はそれではいけません。

以下の箇所を読んでください。

 

新約聖書 ルカによる福音書 1章31~33節

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。

 

上記箇所は、天使がマリアに告げた内容です。先の旧約聖書の箇所と比較してください。お分かりでしょうか。ダビデの王座は子孫であるイエスに受け継がれるという意味なのです。このように、旧約聖書と新約聖書は繋がっているのです。この点に限ったことではないですが、どちらかだけでは完全には理解できないと過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」でも述べたとおりです。

そして、主イエスによる支配が終わることがないというのは、ヨハネの黙示録21章にある「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」での支配を意味します。この世界では、海もなく(黙示録21:1)、死や悲しみ、嘆き、労苦もなくなり(黙示録21:4)、新しいエルサレムの都では、太陽も月も必要なくなり、(黙示録21:23)、夜がない(黙示録21:25)のです。ただし、この都に入れるのは、子羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる(黙示録21:27)のです。

簡単なことではありませんが、また保証などどこにもありませんが、是非見てみたいものですね。黙示録については、非常に難解で、それについて語るだけでかなり時間を割くことになるので詳細は別の機会にします。

 

真のクリスチャンならば分かっているでしょうが、ヨハネの黙示録が示す世界に辿り着けない人が大多数なのです。大多数の者は、この事に気付きもしないし、知らないし、耳を傾けようともしない不信仰の者、たとえ知ってても真に理解できず、神の言葉を守れず、入れないにわかクリスチャンや偽善者、偽預言者、偽教師、不義を行う者たちです。聖書の真理を理解し、きちんと守り、本物の信仰を持った神に従順な人だけが見ることができる世界です。

 

私は一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上