こんにちは。
今回も非常に重要な内容をお話します。
普段みなさんが考えもしないような内容だと思います。
突然ですが、主イエス・キリストを愛するということはどういうことだと思っていますか。聖書を毎日何時間も読む、讃美歌を歌う、教会に通う、断食をする、貧しい人を助けるためにわざわざアフリカや、大国から不当な攻撃を受け続けている中東諸国(例えばイラクやシリア等)のような遠くの国まで時間と費用を掛けて飛んで、伝道や奉仕活動をすることでしょうか。聖書のどこにそんな記述がありますか。上記のような行動が正しいと思い込んでいる人は、にわかクリスチャンです。なぜなら、聖書を読んで理解していないことが明白な上、心が偽善で満ちているからです。神から離れている、即ち、世に属する人間は、人情という偽善を正しいことと信じて譲りません。神から離れている人が持つ人情というのは、善行の動機が人の利己心から来ることが多いです。他人から褒められたい、良い人間だと思われたい、または自分自身が良い人間だと思いたいという動機から善行をするのでは偽善でしかありません。間違った動機で善行をすると、善行をする自分に酔うという事態に陥る危険性が高いです。貧しい人に施すのに、時間と費用を掛けて遠くに行く必要などあるはずがありません。現地の人が遠くから来ることを期待していると思いますか。身近で出来ることはいくらでもあるはずです。聖書を読むことは、主イエス・キリストの教えや愛、神の掟、戒め等の聖書の真理を知ることの手段にすぎないのです。聖書を読む行為そのものが善行なのではありません。聖書の内容を完全に理解できていないから理解できるまで読むのは当然のことであり、たとえ理解できたからといって読むことを一切放棄するのも問題です。真のクリスチャンなら、聖書を誰にも強制されずに自発的に、常に信仰を厚く保つためには読み続け、新聞、雑誌、小説等に興味を示さなくなるはずです。話が少し逸れましたが、神を愛することについて、聖書にはこうあります。
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15、21節
あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
(中略)
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。
新約聖書 ヨハネの手紙一 5章3節
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
旧約聖書にも同じことが書かれています。
旧約聖書 申命記 30章11節
この戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
旧約聖書の中でも申命記は掟に関して多くの重要なことが盛り込まれているのでよく読み込むことを勧めます。また、イエスがサタンの誘惑に遭った時に返答した答えの根拠も申命記に書いてあることが分かるはずです。神の掟は守らなければならないのは当たり前なのですが、何故守らないといけないと思っていますか、救われるためですか。そうだとすれば、それも偽善です。律法主義に陥っています。義務感から神の掟や戒めを守っているのは、まさに律法主義者なのです。心から神を愛していないのです。私が言いたいのは、神を愛すれば、自然に掟も守るようになるのです。イエスが「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)と言われたのは、クリスチャンであれば、実践しているかは別として、誰でも知っています。これを新約時代の新しい掟だと思って信じているのは、にわかクリスチャンです。実は、旧約時代から言われていることであり、新しい掟ではないのです。証拠は以下のとおりです。
旧約聖書 レビ記 19章18節
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
ご覧のとおり、イエスの仰ったこと同じです。ただし、その質には違いがあります。旧約時代は、イスラエルの同胞を隣人とし、違う民族はこの隣人には含まれていませんでした。しかし、イエスが仰ったのは、イスラエルやユダヤ人の間だけでなく、すべての人が対象なのです。それは以下から読み取れます。
新約聖書 マタイによる福音書 5章43~46節
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」
イエスは、上記のように仰り、敵を憎んでいた旧約時代とは異なって、隣人を愛することについて分け隔てすることを否定されました。そして、イエスは、同胞だけでなく、迫害する敵をも愛するようにと教えられました。悪人ですら身内を愛するのだから、悪人と同じように身内だけ愛しても不十分ということです。偽預言者RAPTとRAPT信者のように、某政治家やイルミナティの滅亡を祈るなどというのが、イエスの教えと真逆のことをしているのが明確に分かります。偽預言者RAPTとRAPT信者が、某政治家やイルミナティの滅亡や破滅を祈る行為は、呪いでしかありません。偽預言者RAPTは、エホバの証人の凋落を自分の預言と合致したと言っている記事を2017年5月29日付で書いていますが、まったくの嘘です。RAPTが言う前からエホバの証人の信者数は少子高齢化の影響と教理の不当性から毎年減少の一途を辿り続けています。私が調べたところ、エホバの証人は、熱心な勉学や柔道と剣道を拒否し、結婚はエホバの証人同士やエホバの証人の信者になる予定の人でなければならず、子育ても一般の幼稚園等に入れることを認めない等、聖書から外れた信条の下で窮屈な生活環境を強要するらしいですから、信者数が減少するのは当然の帰結と言え、今年から始まったことではないのです。RAPTは自分の言ったことを正当化するために社会現象と結びつけようとしますが、RAPTは聖書の真理を分かっていないので、世のことを必死に分析して、世に合致するように聖書を都合よく利用して予言するしかないのです。占いみたいなもので、預言ではありません。占星術師のノストラダムス等と大差ありません。占い、霊媒等が神が忌み嫌うことであることや、預言と予言の違いは過去記事で説明済ですので、忘れた人は復習してください。何度も言っていますが、偽預言者RAPTなどに決して惑わされないようにしてください。
さて、話が逸れましたが、マタイ5:43以降に書かれている、隣人愛についてですが、人を分け隔てすることなく愛するというのは、天の父なる神がそうしているのだから、その神の子となる真のクリスチャンも同じことをするようにという戒めです。究極的には、これを自然にできるようにならないといけません。上述したように、義務感でやっているうちは本物の愛ではありません。
最も勘違いが多いのは、イエスが仰った最も重要な掟として、神を愛することと、隣人を自分のように愛することさえ守れば、他はどうでもいいと考えることです。多くのクリスチャン(にわかクリスチャン)や「外部の人」はこのように考えています。有り得ません。愛さえあればいいというのは、イエスが意図されたことではありません。以下のとおり、神の掟を無視していいはずがないのです。
新約聖書 ヨハネの手紙二 5~6節
わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが聞いていたように、愛に歩むことです。
わたしは、過去記事でモーセの律法について書きました。十戒を守る人のことをどう思っていますか。「外部の人」や、にわかクリスチャンは、律法を守る真のクリスチャンのことを律法主義者と言うのでしょうが、大きな誤りです。十戒の第5条で父母を敬えとあり、父母を大切にする人を律法主義者と呼ぶのでしょうか。また、第6条を守って殺人をしない人、第7条を守って姦淫しない人、第8条を守って盗まない人、第2条を守って神社、寺等への参拝やそれに沿った方式の冠婚葬祭を遠慮する人を律法主義者と呼ぶのでしょうか。過去記事で律法が無効になっていないと説明しました。聖書に律法の存在そのものが無効、変更になったという記述はありません。それにも拘らず、十戒の第4条の安息日を守る人を律法主義者だと批判する者がクリスチャンの中にもいるとお話しました。実に嘆かわしいです。十戒のうち9つは守って、何故、安息日だけを軽んじるのでしょうか。にわかクリスチャンは、所詮自分たちの信じたい事を信じ、自分たちの都合の良いようにしか生きていないにも拘らず、それで救われていると何故か勘違いしています。そして、何度も言ってきましたが、にわかクリスチャンは世に属する人間なので、私のような真のクリスチャンの言うことを絶対に聞き入れません。サタンは、神の御心どおり掟に従って歩む真のクリスチャンを聖書の福音の恵みを拒否した人のように律法主義者と批判して印象操作します。はっきり言っておきますが、神の掟や戒めを守ることは律法主義ではありません。ただ、動機が問題なのです。改めて、律法主義について言っておきますが、律法主義とは、律法を守った自分の行為を義として自力で救いを得ようとする考えです。上述したように、救われるために神の戒めや掟を守るべきだと思うことが律法主義です。救われるために、旧約聖書で書かれているとおり、豚は汚れた動物だから豚肉を食べることが許されないとか、ヒレと鱗(うろこ)が無い水中生物は汚らわしいからエビやイカ、タコ等の魚介類も救われるためには一切食べてはいけない、我慢するしかない等言っている人が律法主義者です。もっとも、食べ物については、以下のとおり、新約聖書で大幅に緩和されています。食べ物については、下記さえ守れば問題ありません。
新約聖書 使徒言行録 21章25節
偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。
一方で、イエスの十字架の贖いによって、信じるだけで救われるのだから、神の戒めなんて厳密に守る必要なんてないと思っている人が大半です。しかし、本当の信仰は、イエスの十字架の贖いに感謝し、天の父なる神の御心どおりに戒めや掟を忠実に守ることです。分かり易いように以下のとおり区分してみます。
①信じて救われるから戒めや掟は不要(律法廃止論者)
②救われるために戒めや掟を守らないといけない(律法主義者)
③神を愛するから神の御心どおりに戒めや掟を守る(信仰による義人)
過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」のとおり、信仰の義を体現するのは、③の姿勢です。世の大半のクリスチャンは、①か②が正しいと考えているにわかクリスチャンです。また、神の戒めを完全否定する訳ではないけれども、一部は守れなくても仕方がないと思っている人は結論としては①と一緒です。②と③については、両者とも神の戒めや掟を守るとしていますが、違いは動機にあります。動機を外見から判断するのは難しいです。偽預言者RAPTやRAPT信者が過去に私を律法主義者と批判したことは、そもそも的外れで、裁く行為に該当します。聖書は人を裁くなと教えている(マタイ7:1)にも拘らず、彼らは浅はかな考えで私を裁きました。しかし、正しい裁き(ヨハネ7:24)は許されています。うわべだけで裁くのをやめなさい(ヨハネ7:24)とあるとおりです。聖書の真理を知らない者が他人を安易に裁いてはいけないということです。よって、偽預言者RAPTとRAPT信者のような聖書の真理を知らない者は、人を裁く立場ではないということです。もっとも、真のクリスチャンであっても好き放題に裁いてよいことにはなりません。特に、「外部の人」を裁くのは神のすることです(コリント一5:12~13)。裁く行為は、高慢の原因になるため、内部の人が明らかに聖書の真理に反していることが判明している場合を除き、極力避けるべきです。
十戒でいえば、第2条の偶像礼拝の禁止があります。カトリックがこれに明確に字義どおり違反していることは過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」、「カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘」で述べました。しかし、偶像礼拝は、像を拝むだけで終わる話ではありません。例えば、結婚を例にとっても、財産目当てで金持ちの男と結婚した女の場合、この女も偶像礼拝をしているのです。過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」で話したとおり、もし、あなたが創造主の神、主イエス・キリストを信じるのは、自分が滅びたくないから、天の国に入りたいから、この世を生きる間に神から恵みを貰いたいという動機で信じるのであれば、これも偶像礼拝です。何故か分かりますか。愛が無いからです。結婚の例は、相手の人間への愛ではなく、金銭欲、金への執着心です。そして、滅びたくないから、天の国に入りたいから、この世の幸福追求から神を拝むというのは、神への愛ではなく単なる利己心です。これで理解できましたか。偶像礼拝というのは、目の前にある像に向かって拝むことだけを意味しません。実に深い内容なのです。
新約聖書 ヨハネの手紙一 2章4節
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
この聖句は、偽預言者や偽善者、にわかクリスチャン等の偽り者は、神の掟を守らない者とはっきり述べています。モーセの律法は旧約時代のもので過ぎ去ったものだという上述区分の①に当てはまる者たちが、まさに偽り者だと聖書が言っています。聖書を読んだ人で、新約聖書だけ読んですべて分かった気になっている人はいませんか。そのような人は何も分かっていません。聖書の真理を知るには、旧約聖書も必要不可欠です。旧約聖書があって新約聖書もあるのです。どちらか一方は要らないと言うことは絶対にできません。その旧約聖書を開くと最初に創世記があります。天地創造から始まってヤコブの息子ヨセフの葬儀で終わっています。最初は神が天地創造に着手し、それぞれ「良しとされ」、人を作って「極めて良かった」と仰って始まったのに、最初の女エバが罪を犯した時からすべてが悪い方向に行きました。時は流れ、ヨセフの死後、イスラエルの民はエジプトの奴隷になりました。罪のせいでサタンとエジプトの奴隷になりました。しかし、神はモーセを筆頭にイスラエルの民をエジプトから脱出させました。奴隷のままでは不幸だからです。奴隷生活は誰も好んでするものではありません。しかし、奴隷であっても、生きるために、糧を得るために、生命を維持するために仕事をしなければなりません。これが奴隷の人生です。これは過去の奴隷だけに限った話ではありません。現代でも世界の大半の人々が奴隷生活をしています。これを読んでいるあなたも例外ではありません。食べるために生きているのは奴隷生活でしかありません。奴隷生活は、罪の結果起きたことです。サタンは、神が愛する人間を神から遠ざけて虚しく奴隷として生き、死んで滅びるように仕組んだのです。しかし、神はそのような人間を救おうとされました。
新約聖書 ヘブライ人への手紙 2章15節
死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
主イエスが地上に来られたのは、旧約時代にイスラエルの民をエジプトの奴隷支配から解放させたのと同じことであり、それ以上のことです。なぜなら、イエスの十字架による贖いは、イスラエルに限らず、全人類に及ぶからです。これ程のイエスの愛、そのイエスを世に遣わされた天の父なる神の愛は底知れぬものなのに、人間はその愛の大きさに気付かず、自分は地獄に行きたくないとか、助かりたいという利己心から来る偶像礼拝に陥っています。非常に嘆かわしいです。そのような人間を神がお救いになると思いますか。神の立場になって考えてみたら分かることです。世の大多数の人々は、もっと稼ぐために頑張っています。生きるだけの必要最低限以上の金を得ようとして、真面目に働く人もいれば、貪欲な金銭欲から犯罪、悪に手を染める者もいるでしょう。今、真剣に生きる意味について考えてみてください。何のために生きているのかを。おそらく、大多数は、良い人生を送るため、幸せな人生を送るためと答えることでしょう。では、何が良い人生なのでしょうか。他人から尊敬され羨ましがられる仕事に就いたり、高級車に乗ったり、高いレストランで食事をしたり、高層ビルや大邸宅に住んだり、子供を有名な学校に通わせるというような、お金に困らない人生を思い描くのでしょうか。これが明るい未来をもたらすのでしょうか。心が平安になりますか。喜びに満ち溢れますか。もし、これを肯定するなら、あなたは奴隷の人生を満喫しているのです。上述のイスラエルの民がエジプトに奴隷として使われていた時の人生と一緒です。食べるためだけに朝から晩まで働く奴隷です。過去記事で北朝鮮の話をしました。北朝鮮の人々を動かす力は食糧です。飢えて、食べていけない人が多いので脱北する人が多いのです。社会主義では、北朝鮮のように、人々が空腹になると国が立ち行かないようになります。旧ソ連やその支配下にあった東欧諸国や東ドイツも崩壊しました。一方、資本主義の西洋は、飢えはありませんが、物欲に支配されています。もっと良い物、便利な物、高級な物、より多くの金を追い求めている社会です。どちらも真の幸せからは程遠いものです。実際、人間が生きていく上で食糧が一切要らないということはできません。食べることが生きることに必要なのは事実です。しかし、それだけではないのです。イエスが荒野でサタンから誘惑を受けた時の話を思い出してください。その時、イエスは40日間断食していたので空腹でした。そこで、サタンが「神の子なら、石にパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)と言いました。それ位別にいいのではないかと思いますか。そう思うなら、あなたは奴隷人生まっしぐらです。イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)と返答されました。これが私が上述したように、申命記に実際に書かれているのです。答えは敢えて書きません。読んで探してみてください。イエスが仰ったことは、人が存在するのは、食べるためだけではないということです。衝撃的かもしれませんが、人間は食べるためだけに存在するのではありません。食べるためだけに存在するなら、それは動物に過ぎないのです。実際、創世記のとおり、人が罪を犯したせいで、現代までのとおり、食べるために生きる動物の水準にまで堕落しました。主イエスは以下のように仰いました。
新約聖書 マタイによる福音書 4章10節
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。と書いてある。』」
上述したとおり、サタンは人間を食べるための奴隷にしています。イエスが仰りたいのは、本来、人間は食糧の先にいるサタンを拝むのではなく、神を礼拝し、仕えるために生きるのだということです。イエスは人間をサタンによる奴隷支配から解放したいという意図が読み取れます。出エジプト記を読めば分かりますが、イスラエルの民がエジプトの奴隷支配から解放された後、食糧難に遭いました。彼らは「エジプトでは肉やパンを沢山食べることができたから、そこに居て死んだ方がましだった。」とモーセとアロンに不平を言いました(出エジプト記16:2,3参照)。そこで、神がイスラエルの民を食べさせるというマナの話が出てきます。これは出エジプト記16章全体を読んでください。神に仕えた人間を飢えさせて死なせたら神の恥になるため、このように約束されたのです。これで食糧の問題は解決されました。あとは、人間が存在する理由である神を求めて、礼拝し、仕えるということです。マナが与えられる際、神は一つだけ条件を要求しました。マナを六日目(金曜日に相当)には他の日に集める分の2倍にするが、七日目(土曜日に相当)である安息日にはマナが降らないから集めに出て行くな、というものです。六日目に2倍にしたのは七日目に入手不可だから前日に集めて取り置きするということです。条件というのは、神が食糧を保証する代わりに、安息日を厳守するように求められました。安息日は、神を想い、神を礼拝する日です。このマナの話で分かることは、食べることと礼拝は切り離せない、切り離すべきではないということです。このように、神は人間を食糧で神を礼拝することを教えられました。食べ物で訓練するとは、まるで動物のようです。そうです、当時のイスラエルの民が食べるために生きるだけの動物の水準に堕落したからに他なりません。神は、イスラエルの民がエジプトを出て神への礼拝を取り戻し、マナを使って安息日を厳守するように訓練されました。エジプトでの奴隷生活からの解放を記念して安息日を聖別して厳守するように神は後に安息日を含む十戒を定められました。この教訓を現代の人々は再度忘れ去って、動物の水準にまで堕落しているのがほとんどです。周りを見てください。安息日を厳守している人はほぼ皆無なのではないですか。
本物の神と偽りの神を区別する手段を知っていますか。旧約聖書のエレミヤ書10章にも答えがあります。創造主たる神か、そうでないかです。サタンは、創造主の神を忘れさせるため、遠ざけるために、多くの偽りの神々(仏教、神道、イスラム教等の他宗教や悪魔崇拝)を作りました。そこで、創造主の神は、人間に本物の神を忘れさせないように、安息日の戒めを定めたのです。この規定が他の偽りの神々を崇める宗教には無い唯一の掟です。安息日は、神のものであり、人のために定められたと過去記事でも説明したとおりです。本当に安息日は重要なので、当記事と過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」を何度でも読んでください。何度も言いますが、十戒の第4条の安息日の掟こそが、仕えるべき本物の神を教えてくれるのです。例えて言うならば、親子関係です。親は子供を得ることで親になる資格を持ちます。そして、子供は親に従い、敬うようになり、親は子供に対して養育する義務と権利を持ちます。同様に、神が神たる資格や権利を持つのは、人間を作った創造主の神ということになります。そういう訳で、創造主の神は人間から敬われ、礼拝されるべきということになります。その創造主の神が自ら天地創造の時から設定されたのが安息日です。安息日は、神が天地創造を終えた記念として、被造物である人間が創造主の神を礼拝する設定した日です。子供が父母を敬うのは生みの親だからであるのと同様に、人間が神を敬い、礼拝するのは神が創造主だからです。また、安息日は、何もしないことを強制する目的ではありません。人間、また家畜たち等を休ませて元気を回復するためです(出エジプト記23:12参照)。人間は機械のように休みなく働いて奴隷になって神を忘れると人間ではなくなってしまうから、神が休息の日として設けられたのです。いわば生命の法則です。上述のとおり、安息日を聖別しなさいという神の戒めは、食べるために生きる動物のようになるな、創造された理由、生まれた意味を考えなさいという神からの愛のメッセージです。安息日は、天地創造の記念日であり、エジプトからの奴隷支配からの独立記念日であり、人間が生きる意味を顧みて休息を得て神を礼拝する日なのです。安息日については、過去記事で言及しましたが、非常に重要なので再度、熱を込めて説明しました。
繰り返し言いますが、神の戒めさえ守れば救われると思っている人は、救われません。救われた人が自然に神の戒めを守るのです。
神の戒めを守らない人は、救いというのはどういうことか分かっていない、即ち、聖書の真理から離れている人です。
そして、以前、同性愛について話をしましたが、過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で説明したとおり、同性愛は神が忌み嫌う行為です。だから罪と定めたのです。それなのに、クリスチャンでも同性愛者を擁護したり、差別はよくないから同性愛もあっていいとか訳の分からないことを言っています。神が忌み嫌うことを擁護する行為が、神を愛する行為であるはずがありません。同性愛者に悔い改めを勧告せずに、平等や隣人愛で擁護する行為は偽善です。他人から自分が良い人だと思われたい、自分が良い人間と思いたいという想いから出る行為にすぎないからです。このようなクリスチャンは、にわかクリスチャンであることが明白です。神は人間を創造されただけで後は知らないという無責任な方ではありません。人間の親子関係でも、親が子供を産んで後は知らないというのは親と呼べませんよね。責任が付きまといます。創造主の神は、すべての人間に対して責任を負われています。神は人間に安息日という掟を与え、私たちの親であると示してくださいました。それに従うか否かは人間の選択にかかっているのです。神は聖書を全人類に知る、読む機会を既にお与えになりました。よって、あとは人間の責任です。
神は人類の罪から救うために、人間の形を取って地上に来られました。それがイエス・キリストです。イエスが十字架で安息日の前日である現代の金曜日の午後3時頃、亡くなられる前に仰ったのは、「成し遂げられた」です(ヨハネ19:30)。天地創造を終えられたのも第六日(金曜日)です。イエスの全人類の罪の贖いの業と天地創造の業を同じタイミングで終えられたのです。その後、天地創造の後、第七日目に神は休まれ、イエスも死なれた状態で安息日を過ごして休まれました。イエスは、救い主でもあり、創造主でもあります。十字架の出来事は、神が救いと創造の責任を両方果たした驚くべき出来事です。安息日は、救いと創造の両方の記念ともなっています。過去記事でも書いたとおり、安息日はユダヤ人のためだけにあるのではなく、全人類のためにあります。もし仮に、十戒にある安息日をユダヤ人のためだけと言うならば、殺すな、盗むな、父母を敬えという他の規定もユダヤ人のためだけにあると言っているようなものです。有り得ませんね。安息日は、天地創造の時からあるのです。当たり前ですが、その当時にユダヤ人という区分はありませんでした。
以上、神を愛するということはどういうことか、生きる意味についてよく考えてください。主イエスの十字架の恵みは、最高の贈り物です。十字架による救いの意味を理解し、感謝しているならば、神を愛するようになります。そうすれば神の御心どおりに生きようとするはずです。もし、そうすることが辛い、苦痛と考えるならば、クリスチャンを辞めた方がいいのではないかとさえ思います。万年にわかクリスチャンの域を出ないからです。神が要求することに喜んで服従する、何が何でも主イエス・キリストについていくという強い忠誠心、常に神を最優先して、命も惜しまない、時には家族、親族をも捨てる気持ちがある人を神は求めています。以下の聖書の箇所で締めくくります。
新約聖書 マタイによる福音書 10章37〜39節
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
上記は家族や親族を蔑ろにする意図では勿論ありません。主イエスに従うのと天秤にかけた時、どちらを取るのかという選択です。そのような時が来ると過去記事でも少しほのめかしています。上記聖句箇所だけでなく、同じようなことを他の箇所でも複数言及があります。しっかり聖書を読んでください。この聖句で、はっきりと過去の殉教者はどういう選択を取ったか分かるでしょう。前々回記事の冒頭で疑問を投げかけた答えはこれにあります。
私は一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上