「人間に対する予定」
予定論には、人間に対する予定は相対的である、と書かれています。神は救いの摂理をなす為に、まず中心人物を立てます。
その中心人物を通して、摂理を全体に拡大します。少なくとも、私が教会に導かれたということは、家庭や氏族を救うための、中心人物だという事です。
聖句には、こうあります。「神はあらかじめ知っておられる者達を、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。……そして、あらかじめ定めた者達を更に召し……」と。
神様は誰が中心人物に相応しいかをご存知ですから、その人を予定されます。
中心人物が備える条件は①選民の一人②善なる功績が多い祖先の子孫③み旨を成就する為の天稟をもつ④後天的な条件がある⑤天が必要とする時機と場所に適合する…となっています。
神から召命された自分なので、この5つの条件を備えているはずです。しかし現実の自分を見つめると、最後の「天の必要な時と場所に合う」だけが合致していると、思う事があります。
次のような聖句があります。「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(コリント第1の手紙1:28)
自分は「無きに等しい者」だと思います。しかし次のような聖句があります。
「私(主)の恵みは、あなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわる…」「…それだからキリストの力が私(自分)に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう」
召命はされても、義となし、栄光を与えるかどうかは人間の責任分担です。
いつも唱えていた言葉があります。「自分を見るな神を見よ!人を見るな父母を見よ!」。自分を見ずに、天を見つめて上記の聖句のような心情で歩み、召命された者の道を歩みましょう。
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