Kaiiの世界~「白夜光」考~ | IN VINO VERITAS

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とあるヴァイオリン弾きの日々雑感

Kaiiシリーズとしてのデュオは初めてだったのだけれど、何度か聴いたことのある曲もあり。

それにしても、魁夷の曲だけでなく、どの曲も、どの曲も…とても凄い(としか表現できない)瞬間の連続で。
このデュオを聴く機会をなかなか作れなかった悔しさと、たった一回だけれど聴けたという喜びで、涙が出ました。

「白夜光」は3回目(3パターン目)。

ピアニストが違う。

1回目は圭司さん、2回目は大さん。そして昨日、妹尾美穂さん。

三者三様。
私はどの「白夜光」も好き。

ただ、おそらく魁夷は、昨日の妹尾さんの演奏を選ぶだろう…と思った。

妹尾さんの「白夜光」は、絵の中の光の角度から明るさ、色合いまでも忠実に描写していて、まるで絵から音が溢れ出しているようだった。

特に、妹尾さんの「白夜光」が魁夷の絵から生まれたと感じさせるのは、光の角度かもしれない。

昨日、あの場で聴いていた方、あるいは共演されていた領さんは感じていたと思うけれど、「白夜光」の妹尾さんの光は、上からではなく、横から射していた。

そして、温度はあまり高くない。
しかし、明るい。

明るいのです。

何と言ったらいいのか…

聴きながら目を閉じると…あの絵が浮かぶのです。

魁夷の絵が好きな人なら、絶対にあの絵を思い浮かべ、あの絵で魁夷が描きたかったことがばんばん伝わってきて、ぐわーっとこみ上げるものが、必ずあります。

魁夷が描きたかった風景の、色彩はもちろん、光の角度、空気の温度…

そう、温度は(気温、水温という意味では)たぶん低い。
夏だけれど。

私は行ったことがないので実のところはわからないけれど、いくら太陽が一晩中沈まぬとは言っても、フィンランドの夏…しかも夜となれば、暑くはないと思う。
少しひんやりしているかもしれない。

でも、明るい。

その明るさは、科学的な数値ではなく、人々が感じる明るさ。

束の間の夏に対する喜び。
太陽の恵みに対する喜び…。

そういうものを「明るい」と感じる人々の目に映る光としての明るさ。

なんかもう、それだけで涙が出てくる。

そういうのが、姿は見えないけれど、いちばん後ろの席の私にも、しっかり届きました。

曲中、私の好きなフレーズがある。
理論的に言うとマイナーコードで進行してるのだけど、妹尾さんが弾くと、なんと喜びに満ちたマイナーコードであることか…!

そういえば…と、思い出した魁夷の言葉。

「ある夜ふと窓を開けると

美しい青色をした薄明かりの光景が
眼の前にありました

白夜の森や湖は
なんと美しく慎ましく

生命に対する賛歌を
奏でていたことであろうか」

この最後の部分。

「生命に対する賛歌を奏でていた…」

そうだ。
そうであった…!

あの絵は「生命に対する賛歌」なのだ。
だから、明るいのだ。
だから妹尾さんのピアノは明るいのだ。

生命の伸びやかな呼吸。
光の中で生き生きと命を燃やす自然。

素敵だ…。

思い返すと、また涙が溢れてくる。

Kaiiシリーズの妹尾さんのピアノは、絵そのものの描写というより、絵が伝えたい(伝えたかったと思われる)ことを音にしているような演奏でした。

魁夷の絵が伝えたかったことを妹尾さんの身体を通して伝えてきているような…

ある意味、妹尾さんが弾いているというより…
もしかしたら…

魁夷が弾いていたのかもしれないな…なんて。

そうそう、共演されている領さんですけれども…

彼の演奏は、もともと絵画的で色彩豊か…と評されることが多く、いわゆる景色の見える演奏、情景の描写に長けた演奏でした。

が、妹尾さんとやるようになってから、そのへんが少し変わったように感じています。

妹尾さんとのデュオ以外のときでも。

「絵」を描くのではなくて、「絵」を見て感じたこと、「絵」そのものの色ではなく、その「絵」が伝えようとしている色、奥行き…絵画で言うと、表面に見えている色の裏側にある、幾重にも重ねられた色…そういうものを、引き出して、引き出して…自分の身体を通して表現しているように感じるのです。

それが、実際に「絵」が題材となったときに、作者と鑑賞者の橋渡しとしての音楽として昇華されているのかなあ…と。

生意気にも、素人ながら、そんなことを思いました。