コトバの宗教 | 通覚寺副住職 釈和光日記

通覚寺副住職 釈和光日記

真宗大谷派 至心山 通覚寺の副住職の日記です。

今日は文京区本郷にある求道会館で、「無人の会」の公開講座で法話を聞かせていただいた。

求道会館は、明治期の真宗大谷派僧侶で宗教哲学者の清沢満之らが活動した場所で、現在は大正モダン風の建物になっている。

無人の会は大谷派僧侶の先輩方有志の会だが、この公開講座は求道会館の雰囲気とも相まって、とても心地よい空気が流れていた。この会は、自分にとってはトラの穴のような場だと感じている。

今回も西田眞因先生のお話をいただいた。テーマは「なぜ阿弥陀仏を信じなければ自分が自分になれないのか」(すごいテーマだ)。お話の中で印象に残った言葉をいくつか。。。



「自分は自分をどのようなものとして生きているか。これを教えていただくのが念仏の生活である」

「自分が自分になるという問題が真宗だ」

「教えをいただくことがなければ、いろんな自分を知らされても統合できない。バラバラになってしまう」

「新しい意味世界を開いてくるのが仏法聴聞」



さらにお話の最後には、言葉には意味空間(文脈、背景)があり、どういう意味空間を生きているかが問題だと言われた。

そして言葉とその意味空間を、分数の分子と分母だと譬えられて、これがストンと落ちた。

「1/2と2/4と3/6はどれも同じ1/2という意味である。分子が違っても、分母によって同じ意味になる。また分子が同じでも、分母よっては違う意味となる。

言葉という分子は目に見えるが、見えていない分母が問題だ。言葉は違っても文脈によっては同じ意味となるし、言葉は同じでも文脈によって違う意味となる。

私はどういう意味空間(分母)を生きているか。新しい意味空間を開かせるのが真宗なのだ」といったもの。



講座が終わって、久しぶりに会った友に「奥さん得度されたんだよね。すごいよね」と感心された。

「自分はすでに得度を受けていたけど、妻の得度はまったく違って見えたよ」といった返答をした。

なるほどこれか、と思った。

私は得度というもの(分子)は9歳の時にすでにしている。それは変わらないが、その意味(分母)は妻の得度に付き添うことで大きく変わった。


「これまではこれからが決める」という私が大切にしている言葉が思い起こされた。これは「今後の行い次第で好転する」ということではない。変わるはずのない「これまで」が、まったく違って見える、いただけるようになる。それが真宗のもたらす意味転換だろう。

「自分」は自分が思っていたよりずっと、思いもよらないほどに深い存在だったようだ。それをわかったつもりになって、見くびっていたことを申し訳なく思う。

今日も先日の嬉しい出来事がまだ持続して、少々浮かれているかもしれない。