昨日は春彼岸会法要が勤まった。今年の法要も昨年に引き続き先輩僧侶に来ていただき、お話をいただいた。
親鸞聖人の「信じる」は、「いただく」と同義語です。
私たちが信じようといこととは違う、受動詞です。
「いただきます」というのは、いただくものが何もないのに言うことはない。
すでに用意されているものがあって「いただく」のです。
食事と同じで一度いただいたから終りにはならない、日々いただき続けていくのです。
という一節が心に残った。
そして、質疑応答では質問しづらかったのだろう、法話と質疑応答が終わって解散となった後に、聞いていた方が先生に直接質問をされた。
『レジュメの中に「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)という一文があるが、「ただ念仏のみぞまこと」というのがどうも納得できない。』
という質問だった。
それに対して先輩は、ふくみ笑いをうかべて「その質問は副住職(私)に聞いて下さい」と答えられた。(ほんとですか・・・汗)という流れから、今度の法話会でそのことについて話すことになってしまった。
この歎異抄の一節はとても難しい、けれども核心をついている言葉のようにも感じる。この言葉としばらく格闘して、自分なりに学んでみたい。
法要の初めにある総代さんの挨拶では、「聞法会へ足を運んでほしい、副住職に育ってほしいんだ」という気持ちを熱がこもった言葉で語られた。
そういったこともあり、法要全体としては、自分が何かを提供したのではなく、むしろお育てをいただいた気がしている。
終わって、やりきった感じはある。しかしモヤモヤとしている。
それで結局お前はどうなりたいんだ?!とのメッセージをいただいた。
どうなりたいか、ハッキリと言いきれる答えは出てこない。悩みながら、迷いながら、自分がいただいた歩む他はないのだろう。この悩み、迷いこそが、私を立ち上がらせ歩ませようとする阿弥陀のはたらきではないだろうか。
とりあえず彼岸が終わったらウマい酒を飲みたい。