最近は登山にはまってまして

週1、2回は近所の山を駆け廻ってます

 

あ、これトップに来ちゃうのか

そのうち消します

さて「人に歴史あり」または「振り向けば波瀾万丈」の時間です(笑)。

っていうかー。

最初に言っておきますけど、タイトルは闘病記になっていますが、闘病をしているのはここ数年だけ。
なのに話ははるか20数年前から始まります。

そしてそこから無茶苦茶長いので、とても一気に書ききれないので、ブログでぼちぼち連載していこうと思います。

長いのはいちおう伏線なのだけど、読んでたらただの苦労話です。
だいぶ前に流行っていた「自分史」の自費出版。あれみたいなもん。

しかも慢性疲労症候群の治療の参考にしようなどと思って真剣にこれを読んでいくと、後で肩すかしをくらうこと、受け合いです。

そんなー、って。

前置きはしましたからねっ。知らないですからねっ。
まぁまぁお暇な方はお付き合いください。

なおブログの法則に逆らって、順番に並べ替えてみましたので、ここから順番に読んでね。
さて始まりは中学生の時の、ブルマ姿。
体操着がブルマだったのですよ、黒の。
なんだかムフフな響きですが、そんなお話じゃありません。

あれは目立つんですよ。お腹が。

とにかく初めておかしいと思ったのは体育の時でした。
私だけ、お腹が、ポッコリ出てるんです。
太ってるわけでもないのに。手足はどちらかと言えば細い方ないのに

「なんでこんななわけさ・・・」

でも母親を見るとまったく同じポッコリお腹の体型なのです。
「まったく因果な遺伝に生まれちゃったものよね」
とダイエットにはげんでいたのでした。


その頃の私はといえば、健康優良児。
病院に行くのは、バスケットで捻挫したとかそんなくらいでした。
あとは年に1回風邪ひくくらい。

不眠症ではあったけど、遅刻もしなかったし運動も好きだったし、健康には全く問題ないと、思っていました。

でもどんなにダイエットをしてもお腹はへこむどころか大きくなっていくばかり。
なぜなのなぜなのダイエットが足りないの・・・。

おかしいと思いつつも健康には問題ないままごくごく普通に成長し、話は一気に高校3年生の夏休みに飛びます。


受験勉強とダイエットに忙しく過ごしていた夏休みのある日、ひどい下痢をしました。
出るものが出ちゃってもまだ痛い。
お腹を抱えてうんうん唸っていたら親も心配になったのか、病院へ行こうかということになりました。
日曜日だったので休日診療をしている病院をあちこち問い合わせて先生と連絡をとり。

そうこうしてるうちに、お腹が痛いのはケロッと治っちゃいました。

「でも病院には行くっていっちゃったからなぁ」
という訳のわからない理由で、とりあえず行くことになりました。何しにいくのかわからないですけど。


診察室に入った私を見るなり、先生が何気なく、ほんとうに何気なく言いました。

「あれ? お嬢さん、妊娠してるんですか?」

「え?」「はぁ?」「えぇ?」「えぇぇーー!!」

母親と先生と看護婦さんと、全員がこちらを見ました。私は必死で首を振りました。
もちろん「横」にです!

「そ、そんな。これはあの、ちょっと太ってるだけで、でへへ」
その頃には私はウエストゆるゆるの妊婦さんのような服ばかり着るようになっていたのでした。

イヤも応もなく検査室に連れ込まれました。
休日だから人も居ない薄暗い検査室の片隅。
お腹にべっとりと冷たいゼリーを塗られ、超音波検査なるものをされました。

その結果「妊娠と見間違えんばかりにむちゃくちゃ大きい卵巣のう腫」ということでした。

「お母さん、こんなになるまでなぜ気がつかなかったんですか!」

しかられる母はしどろもどろ。
「あの、でも私もお腹出てるし、遺伝かなと。あの、あ、あの、私もそうなのでは?」

母のお腹をムギュムギュもんでみる先生。きっぱりと言いました。
「あなたのはただの脂肪です!!」

はぁぁ、私のは腫瘍ですかぁ。なぁんだ、すっごい気にしてたのに。
そこの病院は婦人科がなかったので、翌日改めて別の産婦人科病院へ行きました。
田舎の病院です。
院長先生は外科、妻の副院長先生は産婦人科、2人で切り盛りしている病院です。
兄も私も従兄弟も、みーんなこの病院で生まれました。

私が生まれる時のこと。
陣痛が始まった母はここへやってきて「お腹が痛い」と言ったらば。
院長先生が「うーん、それは盲腸かもしれない」と言ったそうです。

すると先生、私は盲腸が大きくなったものですか?


この先生2人、今でも私は大変恨んでいます。目の前にいたら首しめるわ。そうしていい権利が私にはあると思うぞ。
それにこんな病院に連れていった親にも、怒っています。
「あの先生ちょっとヤブだから」
って、そんなところへ何故連れていったの(;_;)


再度エコーをとられ、女先生にかなりひどい状態だと言われました。
「腹腔内が腫瘍で埋め尽くされていて、
お腹の大動脈は圧迫されてねじ曲がっていて、
腫瘍が周りの臓器を圧迫して
もう周囲から組織液が染み出している状態」

「発見があと1週間遅かったら
衰弱して手術もできない状態だったかもしれない」

・ ・・腫瘍が大きすぎて内臓圧迫で衰弱死寸前? 面妖な響き。
うーん、元気なんですけど。

それからこうも言われました。

「ガンかもしれない」

あのさー。
そんなに大きな腫瘍がガンだったらさー、私、とっくの昔に死んでるのでは?
中学の時にはもうそこそこ大きかったのだから、この腫瘍はもしかしたら小学生の頃から育ててたようだし。
だいたい高校生の娘に、いきなりさらっと、そういうこと言うかい?

親も別に呼ばれて同じ事を言われて、かなりビビッてたらしいですけど、私は別の意味でビビッてました。

この病院で、だいじょぶなん?


翌日入院、体調が落ち着くのを待って手術だそうで。落ち着いてるんですけどー。









ハリセンボン


病棟はお産の人ばっかりでした。
かわいそうだからって個室に入れてくれました。

でも廊下に出ると、精も根も尽き果てた出産前後の人がネグリジェ着て、まるでゾンビのように(失礼)よろよろ~、よろよろ~と歩いています。
夜になるとうめき声やさけび声が、あちこちから響いてきます。

高校生には刺激強すぎ。
とっとと切って取って、とっととここから出して。


手術は夏休みの終わり。8月31日でした。
「まだ若いから回復が早いように」腰椎麻酔だそうです。

あれは下手な人がやると神経に針がささってむちゃくちゃ痛いらしいですね。男先生ちょっと不器用だという噂だったので心配してたのですが、あっさりと注射が終わりました。

「ほぉぉ、なかなかうまいじゃん」

油断させられました。


手術が始まり、お腹を切られたのはまったくわかりませんでした。
でも突然胃のあたりに激痛が走り、

私は手術台の上で、

たぶんお腹に手を入れられたまま、

暴れました。

「ウギャー、やめてーー!」


あのね、注射したところより下は麻酔が効いてるけど、それより上は効いてないわけ。
ところが腫瘍はもう肋骨のすぐ下、胃のあたりまであって、べったり癒着してたわけ。
それを引っ張ってベリベリはがすわけ。

そこ、麻酔効いてないわけ。

後に「内臓の癒着をはがされるような痛み」という痛みの表現があることを知りましたが、実際に体験したことがある人も珍しいでしょう。


全員に抑えつけられました。
「我慢しなさい!」
ゼイゼイ。

落ち着いたところでまたベリっと。

「ウギャー、もうやめて」
「我慢しなさい! すぐ終わるから」
「え、はぁ、え、あとどれくらい?」
「なぁに30分くらいだよ」
「そんなに耐えられないー」

手術って、抑えつけられて痛いの我慢してするものなん? 違うよね?
嫌な予感的中しちゃいました。
もういいから。途中でもいいから家に帰して(;_;)

動かせる上半身をばたつかせて暴れる私に手術は一時中断。
全身麻酔され、10数える前に意識がなくなりました。

最初から、全身麻酔でやりなはれ。


後に聞いた話ですが、とり出した腫瘍を計ってみたら4キロあったそうです。赤ちゃんならまぁぁ大きな赤ちゃんだこと。
でも妊娠末期というほどにはお腹も出てなかったですから、平らに、それこそお腹全体に、あったんでしょうね。

そんなんエコーでわかってたでしょうに。
麻酔から覚めたのは夕方です。

痛いのなんの。

腹腔内を埋め尽くしていた腫瘍の癒着を、ベリベリはがされた後の痛みです。膝小僧すりむいただけでも痛いのに、それがお腹の中全部です。

でも何度頼んでも痛み止め注射をしてくれません。
「まだ若いから治りが早いように、我慢しましょう」だって。
どういう意味よ。
若くったって我慢出来るもんじゃありません。

5分置きにナースコールしてたらしまいに怒られました。
「出産の人はもっと痛いのよ! それくらい我慢しなさい」

ウソだと思うぞ。
あれは尋常じゃなかったぞ。
それに私には出産のカタルシスが待っているわけじゃないのに。

9時頃やっと一回注射してくれました。
でも20分で切れました。


あの夜、身動きできないまま、一晩中シクシク泣きながら、うめきながら、いろいろなことを考えていました。
「痛みで気絶するなんてドラマで見るけどありゃウソだね、こんなに痛いのに気絶しないもん」

決めました。

「これより痛いなんて信じられない。だったら子供なんて産まない」
「もう絶対に、2度と手術はしない。今度手術しなきゃ死ぬと言われてもそのまま死んでやるっ!」

一睡もできないまま悪夢のような夜が明けて、朝にはすこしは痛みも治まってきました。


手術後のお腹はべっこりえぐれてて、太ってるどころか脂肪なんて1ミリもありません。
包帯替わりに巻いてあるサラシなんて、なんの意味もありません。

えぐれてるんだもん。

いまでもTVでミイラが写ってたりすると感慨深いものがあります。
あれって内臓抜いてるから、骨盤からがっつりえぐれてるのよね。
あー、あの時の私のお腹だ~。


「まだ若いからかわいそうだから傷跡が目立たないように」細い糸で縫っていただいたそうです。
お陰様で起きあがろうとすると傷口がプチッと開いちゃってまた安静、というのを繰り返し、半身起きあがるだけでも10日ほどかかりました。

褥瘡いうんですか、お尻がグズグズになっちゃって痛いったら。
ガーゼを止めてるテープもかぶれて痒痛いし血が出てるし。表も裏も痛いしかゆいし、グズグズ、グチャグチャでもうさんざん。

しかも結局、傷跡はきれいにくっつかずケロイド状になり、幅1.5センチあるし。
目立たないどころの話じゃないです。
そうそう人にみせるところじゃないけどさー。


気を使ったことがぜーんぶ裏目。
これをヤブと呼ばずして何と呼ぼう。
あのヤブ医者どもめ。一生恨んでやる。










ちょっと緑な写真もいいかなって



退院後の経過も非常に悪く。
学校にはあまり行けず、日常生活もままならない状態でした。

術後のシンドイのに加えて、更年期だって。この年で。

「卵巣を1つとったから。でももう1個が補完するようになるからそのうち治ります」


私は受験生でした。そのうちに私の状態を見て親が言い出しました。

「大学は諦めろ」

冗談じゃありません、家出のチャンスです。
それだけは、それだけは。

とりあえず親の希望だった薬学部の推薦入学を見つけてきて受験しました。
いちおう試験などあったわけですけど、推薦入試の試験って、基礎知識の問題なんですね。私はホントは国立の薬学部じゃないところに行きたかったたわけで。
入学金おまけするからいらっしゃいましということで受かりました。

これなら文句はあるまい。
東京の一人暮らしの道はとりあえず確保しました。

そこから共通一次(当時はそう言ったのよ)にむけて頑張るつもりだったけど、気が抜けちゃったし、そんな体力ありませんでした。
まぁ、希望学部はまた来年受験したらよろしい。来年には治ってるだろうし。


出席日数が足りないと脅されながらも、なんとか高校卒業。
東京での一人暮らしは、そりゃもう楽しかったです。
微熱は下がらず倦怠感は抜けず、たまに高熱を出し。でも当初の目的も忘れて遊びまわってました。

ただ体調は、良くなるどころか、だんだんと悪くなっていきました。

オイオイ。


2年生も半ばになった頃、さすがにこりゃまずいんじゃないかと思いました。
だるいのもだるいけれど、困るのは、食べたものを吐いちゃうこと。

消化してくれないんですよ。
食べて8時間くらいたって戻しちゃったら全く未消化だったり。普通は2時間で消化終了で胃は空っぽのはずなのに。
あの頃食べたもの、半分くらい吐いてましたか。

そこで1年の時に高熱を出した時に行って、なんだか頼もしく見えたおじいちゃん先生のいる、原チャリで10分くらいの総合病院を訪ねました。


検査したところ・・・私の内臓は異常だらけでした。
結局その病院にはそれから2週間に1度、1年半ほど通いました。
その間血液検査ではCRPと、GOT・GPTが上がったまま。触診でも毎度肝臓腫れっぱなし。そりゃぁだるかろう。
尿検査でも潜血と蛋白出続けてたし。
血圧は100を越えたことはないし、脈拍は100を切ったことがないし、白血球は増えてるわ、高熱もたびたび。その度に扁桃腺とか腎盂炎とか言われました。

今ほど検査機器もない時代。1年かかって内臓1つひとつ調べていきました。
いろんな検査しました。

何を調べても異常が出ます。

でもその原因が、見つからない。


内臓で検査に引っかからなかったのは、肺だけでした。

「このままじゃ白血病になっちゃうよ」
「このままじゃ慢性腎盂炎になっちゃうよ」
「このままじゃ子供生めないよ」いらん。
「このままじゃ将来、骨粗鬆症になっちゃうよ」

だからって、どうせいっちゅうの。


しまいには心臓発作まで何度か起こしましたが、先生には内緒にしてました。
もう面倒で(笑)。
脈がすごく変なのがバレて運動負荷後の心電図もとりました。
「軽い狭心症ですね」
軽い? 発作の時はこのまま死ぬんかって思ったけど。

でもこれ以上生活制限とかうるさく言われたらいやだったから、先生には内緒・・・。


通い始めて1年がたつ頃、いつものように病院に行くと先生が改まった様子で言いました。

「結局、癒着性腹膜炎だと思います」

お腹の傷の癒着がひどくて、こすれる、ねじれる、熱をもつ。
軽い腹膜炎の状態で、免疫反応が起きる。
熱で周りの臓器が軒並み弱る。
そこに血が集まるから頭に血が行かなくて貧血状態。
でもって心臓に負担がかかっている、だそうです。

理路整然としているように思うのですけど、この病名、怪しいらしい。
その後数々の病院に行った時に病歴にこの病名、必ず書いておくんですけど、先生が全員首をかしげます。
ほんとに全員が首をかしげるので、「あぁいまあの辺見てるのね」とわかります。
医学書の隅から見つけ出してきたんでしょうか。

更に先生言いました。
「あなた免疫不全の気があるからね」

それからおもむろにいつも座ってる事務机の引き出しをガラガラ開け、茶褐色のビンを取り出しました。中には白い粉が入っています。

「これ飲んでね。1日1回3日間。毎日同じ時間に。空腹時に」
薬包紙にキッチリ薬包包みで包まれた3包、渡されました。

あやしい。あやしすぎる。

あまりのあやしさに、薬の名前、聞けませんでした。
インフォームドコンセントなんて言葉もまだない時代。私はまだウブな患者でした。
これはいまでも後悔。なんの薬だったんでしょう。

先生の言うとおり、3日間のみました。


それから3ヶ月が過ぎる頃。体調は、冗談じゃないくらい悪くなっていきました・・・
って、おい。

ほとんど這うようにして病院に行きました。
「先生、ぐ、具合悪い」

先生、お気楽。
「なぁに、それは薬が効いてる証拠だよ。これからだんだん良くなっていくから」
なんですかそれはー。

でも先生の言うとおり、それからだんだん体調は良くなって行き、更に3ヶ月が過ぎた頃、あれだけ毎度出続けていた検査の異常がピッタリとなくなりました。
うっそ~。

「でもね先生、まだダルくて微熱も下がってないんですけど?」
「それくらいはね~、仕方ないよ」
先生お気楽。
「でも、10年たったらどうなるかわからないよ」

とにかく検査の異常もなくなったし、吐くこともなくなったし、ダルイのもそれまでに比べれば格段に楽になったので「これくらいは仕方ないのか~」と通院終了。

何しろあれだけの検査異常を治してくれた先生の言うことですから。


それにしてもあれは、何だったんでしょう。引き出しから取り出したビン入りの薬って・・。






学生生活は悲惨だったかというと、そうでもないです。
スキーの同好会に入ってたし、他の大学のサークルも行ってたし、夜の街にもやけに詳しかったり・・・。

病院に通ってた頃も、実際のところたいしたことないと思ってました。
病院にいけば異常が見つかるという経験しかしたことがなかったから、検査というのは、すごく、とっても、異常が出やすいものだと思ってたのです。
健康な人でも調べたら異常が出るようなもんなんじゃないかって。

後でそれはとんでもない誤解だって気がつくわけですけど。
だってよくおじさんが「肝臓がひっかかっちゃって」なんてニコニコ言ってるし。
だいたい、リアリティがなさすぎるのよね。私が病気だなんて。

体調の悪い時は、1日中寝ててもシャワー浴びる元気もないという状態でしたけど、入院しろとは言われなかったから、体調のいい時を見計らっては、遊び回ってました(笑)。
気晴らししなきゃ、やってらんないじゃん。

授業は・・出席がうるさいからいちお出て、途中で抜け出して学食でグッタリ、でした。
実習は、脊髄反射でこなしました。
立ってないといけないから何度か倒れたけど、なんでそんなタンカ騒ぎになるん? 中学の朝礼で倒れてた人は今どうしてるん?
中学の頃は倒れたことはなかったけどさぁ。

そんなだったから定期試験はかなり大変でした。
若かったからできたんでしょうねぇ。三夜漬け。

なんとかスレスレで進級し続け、4年で無事卒業、国家試験も通りました。
でもその後、医療関係の仕事は一切してないので、つまりは授業は出てない、知識の更新もしてない、胸をはって薬剤師ですなんて言えないあやしい薬剤師、なんですわー私。

役に立ったと言えば、人を驚かすのには効果的だったなぁ。
薬剤師のイメージとかなりギャップがあるようで(笑)。
「歌って踊れる薬剤師めざしてまーす」これはなぜか結構うけたし。

ただ最近になって医療系の論文など読んでると、何が書いてあるのか、だいたい理解できるんですよね。試験前にとりあえず詰め込んだだけの情けない知識でも。
専門の教育カリキュラムって、すごいなって思うところです。


学生時代の特筆するべき出来事といえば、「絶交状」をもらったことでしょうか。

ある日、よくつるんでいた友達グループ全員の署名入りの絶交状をいただきました。
「あなたとは今後、友人つきあいできません」

その時はいきなりのことでかなりショックで、別の友人に見せたら
「いい年して何やってんだか」
と笑い飛ばしてくれたので落ち着いたのですけど、家に帰ってよくよく考えてみました。

私は口を開けば「だるい」というばかり。いつもぐったり。
資料を借りても何をしてくれても「私はこんなにシンドイんだから、友達なら助けてくれて当然」と思ってろくろくお礼も言ってなかったし。

客観的に考えて
「こんな友達、私もイヤだ」
と思って笑っちゃいました。


「だるい」という言葉は、言う方は何気なく言うけれど、聞く方にはとても重く響く言葉なんですね。
病気というのは本能的に忌み嫌われるもの。これは人が生き延びるための生存本能だから仕方のないこと。
その本能を抑えるのが、人の理性と、やさしさ。
重症に見えないなら理性が本能を抑えられません。
そして人のやさしさにも、限界があります。

人はみんな、幸せで、ハッピーでありたいのです。

その日から「だるい」は禁句にして、「笑う」ということを始めました。
笑顔をみればほっとするのも、また本能。単純なものです。

鏡を見て練習をして、最初は目が笑ってないだのなんだの言われましたが、作り笑いも慣れるうちにだんだん馴染んでいき、そのうち考え方までお気楽になっていきました。

この後、私はかなり運に恵まれ、人に恵まれてきましたが、それはこの時に「笑う」ということを覚えたおかげだと思ってます。


絶交状にはその夜にお返事を書き、翌日に渡しました。
「ごめんなさい。病気だからといって甘えすぎていました。いままでどうもありがとう。この反省を胸に生きていきます。ほんとうにいままでありがとう」

後味の悪そうな顔をしてましたね。
あとで言われました。「普通にあやまってくれたら元通りだったのに・・」
わかってますがな。

でもね、遊び半分で困ってる私に塩を塗りこむようなことをする友人は、要らないし。
ちょっとした意地悪返し。けけけー。
教訓はありがたかったけども、それはそれ、これはこれですわ。
さて気がつけば大学4年だった私は、就職を考えなければいけません。
当時はバブル絶頂。とにかく人手不足の超売り手市場でした。

私はそれまでアルバイトさえしたことがなく、働くということが恐怖でしかありませんでした。だいぶよくなったとはいえ、9時から5時まで起きていないといけないのが、信じられない。自信がない。

自分の働けそうな条件というのを考えました。

完全週休2日、残業なし。営業職で外を回るというのは無理。立ち仕事も絶対無理。
事務職で、でも会社で座ったままというのもしんどそうだから適当に外に出られて・・・。

薬学関係では無理です。スッパリ、そちら方面はやめました。
じゃぁ何ならいけるかって、マスコミ関係かなぁ、って。なんとなく労務管理がいいかげんそうなイメージがあったから。
あとね、私は子供の頃から読書魔だったので、そのせいか国語の成績よかったし。
だからなんとかなるんじゃないかなぁと。

それに情報産業にいたら私のこのわけのわからない状態の解決の手がかりもみつかりやすいんじゃないかと思って。

と、いうのは自分への言い訳の理由。
ほんとはそっちの仕事の方がおもしろそうだったから(笑)。
どっちにしろギリギリのところでかせがなきゃいけないのだったら、楽しい方がいいもーん。

求人情報誌に「残業はありません」と書いてあった広告代理店に行って、何しろバブル期のこと、あっさり採用で、まぁここでいいっかって。


入社後はいちお企画担当ということで。
何してたかわからないのですけど。
業界事情やら、コピーライティングやら、パソコンまで覚えて。

ワープロもまだ珍しい時代だったけど「パソコンほしー」っていったら「好きなの買っていいよ」っていうんだもん。
本を見ながらポチポチ勉強し、疲れたら「図書館にいってきまーす」と家に帰ってお昼寝。
いろんなセミナーとかも行かせてもらい放題だったし。

ありなんかなぁ。

良心がとがめるのでいっぺん部長に聞いてみたら、ありでいいっていうし。
ほんとに言ったのよ。ありでいいって。


3年ほどして、なんだかな? と思って今度は雑誌出版社に転職し、雑誌の編集の仕事を覚え。

この会社も、のんきでした。
休日出勤なし、残業もほとんどなし。しかも自主的にかなりフレックス。
有給休暇は当然全部消化。
それでも足りなくて、直行直帰のズル休みしてました。
後で計算してみたのですけど、祝日を入れると週4日弱くらいしか働いてないようでした。

同僚も、さばけた人ばかりで。
よく会社の机でつっぷして爆睡してましたけど、起きると「折り返しTEL」のメモがいっぱい貼ってあるんです。
携帯電話のない時代、かかってきた電話にみんな私が寝てるもんだから、外出中って言ってくれてたわけです。
「戻りですか? えー、たぶん2時間後くらい・・・」
って。
編集長まで(笑)。

そんなんでも、許容してもらえる時代だったんでしょうね。
今の時代では、こうはいかないのでしょうね。


病院は何件か行きました。

仕方ないものだと思ってたけど、そうは言ってもおかしすぎる、何かがおかしいと病院に行く。
でも検査してもまったく異常がありません。

「異常ないです」
「じゃぁ、この延々と下がらない微熱はなんなんですか?」
「さぁぁぁ」
・・・ガルル。

やっぱり仕方がないのかと思いました。
そういう体質なのか、根性が足りないのか、みんな辛いのにがんばってるのに、私はなんて情けないのだとか。

それでもおかしい、と思って別の病院に行ってもやっぱり・・・という繰り返しでした。
毎年の健康診断でも、まったく異常はありませんでした。大学生の時はあんなに異常だらけだったのに。

自分でも半ば諦めていたので、病院もあまり積極的には行きませんでした。
病院って、診察と結果で2日休まないといけないんですよね。ただでさえ休んでばっかりで、休みは貴重なんですもん。