異節。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 午前は空間清浄とお節計画立案作業。主夫ではない日だが、家中の開口部を全開し、ブロアをフル回転させ塵埃を隅々から吹っ飛ばし舞い上がらせた。綿埃がとにかくすごくて、これを日々われらは肺に吸いこんで生きているのか、と思うと恐ろしくなる。煙草どころの騒ぎではない。が、ブロワを使いだすまでは、ハタキでハタハタする程度だったから、人体というのはかなりの量の埃を肺や胃に吸収しているということだろう。衣服を着れば当然微細な繊維が舞い散るし、布団や毛布も無尽蔵に埃を生産していることだろう。けれどもわれらは、しっかり生きている。
 平均的な住環境における家庭生活で、如何程の綿埃とかが発生し空気中に混じり、人体にどれくらい吸収されているか?なんて調査は為されたことがあるのだろうか?そんなことを調べれば、嫌煙ムードもいくらか和らぐような気がするから、ぜひ心有る専門家にやって欲しいものである。雑菌やカビの宝庫かも知れないし。もしかして発がん性物質云々なんてことになったりするかも知れないし。

 午後はひたすらあんちょこの推敲というか、ブラッシュアップ作業。今はかなり詳細な経絡あんちょこを作っていて、十二経絡と督脈任脈上にある経穴の機能的な性質を総覧できるA4判のデータファイルにしようとしているが、盛りこむべき情報が大量すぎてなかなか捗らない。また作業するうちに別の角度から経絡経穴を整理する資料も必要だなとか思いつき、それもやりだすと、来月いっぱいくらいかかってしまいそうな気がする。さっさとスタートしたいが、やるべきかスタートしてしまうべきか悩ましい。私はどちらかというと実行型で、すぐ手をつけてしまい後悔しつつ学習していくタイプなのでやっちまうか、と思うが、思いついた資料は絶対に用意しておきたいものなのでとっても迷う。すでに無くても開始できると思うけど、貢献度を高めるためには不可欠と思われる。カンニング用のあんちょこだけど。
 もっとも、今でも思うが、医療でも、指圧マッサージでも鍼灸でも整体でも、なんら資料を見もせずにやるものを私はまったく信用しない。資料と首っ引きなんてのも信用しにくいけど、なにかやる前に本でもノートでも良いが、真剣に覗いて考えたりしてもらいたい気がする。どうせ、すべての情報を記憶しているわけないのだから。経穴は中医学では基本的に三百六十五とか、もっとある説が多いが、WHOの見解では三百六十一だとか。それだけでも私的には気が遠くなるほどの数で、絶対に記憶できない絶対的な自信がある。あんちょこなしに弄るなんて、あんちょくすぎるとしか思えない。
 なのでカンニングペーパーをあれこれ用意しているが、あまり多すぎても不便なので、基本は経絡理論に基づいた経穴総覧にしようと考えているわけだ。数冊の専門書籍とネットの情報を照らし合わせて機能的な面を検討しつつこういう性質らしいと判断しながらやっているので、ものすごく時間がかかる。筋肉系の性質はけっこうわかりやすく、すでに基本的なことは理解できたと思うけど、経絡理論は難解で、というかベースとなっているのは統計のはずだが、資料にしている書籍の著者によって見解が異なるから判断しにくいわけだ。要は実際に接触した経験からしか判断できないということだと思うが、とりあえずは一般的な性質くらい理解しておかないとダメなのでやらざるを得ない。

 そんな午後を過ごしたが、どうしたことか私の頭の核には、ずっとお節が巣くっていて、合間合間にそのことばかり考えていた。
 お節料理の企画ではなく、「節」という文字の意味が気になっていたのである。
 というのも、私が好きな関節も「節」だからである。季節も「節」だし、浪花節だって鰹節だって「節」なのである。
 いったいにして、「節」とはなんぞや?なんて思ってしまったのだった。
 「節」はとにかく多様に使われる言葉で、文章でも一節二節なんて言い方もする。竹のあれも節だし、詩歌の区切りも節と言う。つまりは、節とは境界線あるいは境界間である、ということになる。
 ガツガツとあんちょこ作りに精励し二時間くらい一服し忘れていて、しまったぁーッと思い換気扇の下へ行き煙草に火を点けひとつ煙を吐いた時、ああ、節だなぁと思った。
 この「節」というのは「間隙」であり、例えば動いているときと止まっているときの間にある、無分別の空虚みたいな時空間と言って良いだろうか。止まっているときは止まっているのであって、もはや「節」ではない。という面では、詩歌や文章において使われる「節」という表現は正確ではない気がするが、んなこと私が言ってもなにも変わらないので言わないが、「節」というのは切れ目から切れ目までの時空間を指すのか、あるいは切れ目そのものを指すのかという問題がある。
 竹の節と言えば、やはり切れ目だろう。私的にはこの解釈がもっとも好きで、「節」とは切れ目、境界線である、となる。
 そういう解釈で「お節」を考えると、正月料理をお節と呼ぶのは大変な誤りではないかと恐ろしくなってくる。本来のお節とは、なんと、年が変わる節目に食べる、年越し蕎麦を指す言葉だったのだッなんてことになる。
 そもそも年があらたまったばかりで、いきなり「お節」はないのではないか。年の節を越えてしまってからお節はないだろう、やはり。

 と想像すると、今お節と呼ばれているものは、本来どのような呼称を与えられるべきだったのであろうか?という疑問が首を擡げる。こうなると、代筆屋の血が騒ぎ、頭が洗濯機みたいにガーガー回転させざるを得ない。
 答えはしかし、簡単に導き出せた。
 「お初め料理」である。「お節」は年越し蕎麦に譲って、二十一世紀の正月これ見よがしゴージャス保存食料理は二〇一八年から「お初め料理」と呼ぶべきである。それこそが、われらがヒーロー、お染ブラザーズを末永く顕彰するなによりのネーミングである。いっそ「お染料理」としても良い。新しい年の色に染めようという祈願の料理として用いれば、家内安全大願成就である。
 みたいな謎めいた縁起系の言葉は、かなりいい加減に使われているわけで、松の内はどうのこうのと言い、飾り物は左義長に燃やすのぢゃとかやっているけど、なんの根拠もありゃしない。ただ、そういうものなのだという非常識のような常識が蔓延しているのが日本かな。
 理屈っぽく根拠を示せなんてことは思わないけど、お節というのはよく判らないので、拘泥して遊んでみたのだった。