人間性と人間との会話。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 昼からネットの調子が悪く、ブチブチ切れる。何度もルーターをリセットしているが、ブチブチ切れる。年末恒例のインスタラッシュかな。わが友人たちも必死にやっているみたいだけど、なにが面白いのだかさっぱりわからない。今、焼き鳥を食べてまーすとか写真で報告されても、だからなんじゃとしか思わないが。
 SNSと最近は言っているけど、私がブログに手をつけた頃はブログだけで、SNSなんて用語はなかった。なんかブログとかいう簡単ホームページ的なサービスが始まったらしいから、ウェブサイトを作るよりラクそうだから使おうか、とgooでやりだしたのだったかな。何年前か忘れたけど、十数年は経っている。以来ほぼ毎日日記していて、仕事で地方へ行ったときや呑みにいったときの他は欠かさず記し続けている気がする。
 これは凄いことで、十数年も基本的な生活に必要とされるものではないある種の行為を生活習慣としてやり続けたのは、これと合気修行だけといって良い。というか、初めに合気修行ありきで、それへの関心から、自分の身体感覚や思考がどのように変化していくかを記録して遊ぼうということが、境界線型禄を記すモチベーションだった。なので、合気記録が多かったが、小泉政権辺りから社会現象を扱き下ろすようなものが紛れこんできた。そういうのは無関係と思われそうだが、無関係ではなく、非常に深く関係している。もちろん合気という技が絶滅危惧に陥ったのは政治のせいではないけれど、生活文化の変化によって日本人の精神性が変化し、同時並行で身体性も変わったために、合気のような技が意味不明になったわけで、元はといえばやはり政治のせいということになる。たまに思いだしたように、日本人が米を食わなくなったとか騒ぎだすが、それと似たようなもので、生活文化を変えてしまうのはほぼ政治行政の仕業だから、無縁ではないのである。

 そういうことを記し続けてきたつもりだけど、どうもサービスでお笑いに走りすぎた嫌いがあり、真意は伝わってない気がする。これは偏に作文屋としての自分のヘマなのでぼやく気はないが、現代日本人の忖度力、理解力を買いかぶりすぎていたのかなという気もする。例の安倍くん関連の忖度問題で強く思ったが、現代人というのは忖度や思考を毛嫌いする性質があるのだろうかなどと思われる。思考するということは、忖度することである。思考するということはまた、遠慮するということである。思考するということは、思いを遣ることであり、顧みることである。他の欠陥欠点を論い指摘することでなく、偏に己の内部を調える精神の健康法として為されるものである。
 が、そういうことをできる現代人はほとんどいなくなったといって良いと思う。
 ひとつの証拠として確信しているのが、合気という技を理解できるものが皆無に等しい、ということがある。口先ではわかったようなことをいう人がほとんどだが、この二十年間教え続けてきて、できた人は一人もいない。二十年という年月はとっても長い。今七十歳の人だったなら、下手すると死んでいるかも知れない歳月である。三十歳のものは五十歳になり、四十歳のものは還暦を迎える。そういう年月である。私的には唖然とするしかない。

 という感じで、代筆についても唖然としてうんざりしたから職を変える気になったが、新しい仕事をやれば半年くらいは食うや食わずに陥ると思うけど、いくらか落ち着けば、そういう現代人の精神性に関する問題提起を、今度はブログなどではなく、リアル界でやろうと考えている。ブログなどほとんど役に立たないようだから、やっぱリアルが良いんじゃねと思うから。
 私がやろうとしている仕事について、合気道関係の人たちに少し話し試作した宣伝チラシを見てもらうと、賛否両論があった。いちばん問題視されたのは、どういう効能効果が約束されるのか、これではわからないという意見だった。つまり、肩凝り腰痛頭痛を解消みたいな表現は一切せず、身体の不快を和らげる調整だくらいのことしか記していないからである。広告としてみれば大変弱い表現だが、売り文句など使いたくないのでそれで良いのだと私は応える。そもそも民間の無資格の健康法は医療ではないから、治すとか表現すれば違法なので。この辺わかっていない人が多くてうんざりするが、そこらの整体院の看板など片っ端から違法行為だったりするのである。わからないのかな?と不思議だが。

 ま、それは置いといて、今日はブックオフに依頼して、古本を始末してもらった。どうにも置き場所がなくなって困り果てたので、四百冊くらいの本を査定もなにもかもお任せでブックオフに引き取ってもらった。たぶん数千円の買い取りだろうと思うが、二度と読まないものだけ選別したから文句はない。あっても邪魔なだけで、何年も階段に積み上げておいたものがなくなるだけでありがたい。それでもまだ七分の一減ったくらいで二階はグチャグチャだが、なかなか捨てにくいので仕方ない。
 本というのはとにかく溜まってしまうから、ブックオフみたいな安易なサービスも無意味とはいえない。ただゴミにするよりはマシだろう。学生のころも数百冊溜まってしまうと古本屋に買ってもらっていて、数千円手にして立ち食い蕎麦を食ったりしていたが、いくらかの知的学習を獲得した上に掛け蕎麦まで食えるのだから読書というのはありがたいものである。まだ残りが三千冊くらいありそうなので、掛け蕎麦が何百杯か食えるかも知れない。読みたい本は、衝動買いしておくべきである。明日の掛け蕎麦のためにも。

 もっとも私の記憶力は貧弱なので、なるべく蔵書を減らしたくないのだけど、家が狭いから減量せざるを得ない。本は私の脳味噌代わりだから、減量するとますます莫迦になるのでなるべく温存したいけど、空間的に厳しいわけで、これまでは仕事部屋と階段や廊下に積み上げていたが、施術環境を拵えるには邪魔すぎて始末せざるを得ないわけだ。わが家の本が減るということは、私の脳味噌も減ることを意味しているから恐ろしいが、如何ともし難い。ま、外付け脳味噌が四百ギガくらい減っても、死にゃあしないだろう、と今回は意を決してブックオフ屋を呼んだのだった。

 居住空間から四百冊くらいの本が消えたという現象は意外に大きく、家族に大好評だった。
 もっとも多い評価は、階段が歩きやすくなった、ということ。私はあまり変わらない気がするが、妻子は歩きにくかったらしい。施術空間の本棚はまだ満杯なので、すぐに階段に並び出す気がするが、ひと時でも歓べるというのも悪くはないことである。本というのは日々増殖していくカビみたいな存在であり、カビキラーでも殺せない厄介な無生物のくせに生物的な存在なのである。
 せいぜいブックオフと仲良くして、厭がらずに始末しに来てもらえるようにしなくては、と思うのだった。
 今日来たブックオフのたぶん非正規雇用の担当者は、三十歳くらいの青年だった。中肉中背でなんら特徴の無い生きものだったが、実にテキパキと仕事をやった。私が昨夜台所部屋に整理した本の山を次々と段ボールに詰め、ちゃっちゃかと二トントラックに運んだ。査定は後日やるそうで、一週間後に査定額を電話しますということだった。
 作業の半ば、やや大型のビジュアル系本を始末しだしたとき、青年が声を上げた。
 「あっ、海水魚の、ほ、本ですねッ。こ、これ、カラーですか」
 「うん、全部カラーだよ。けっこう大量にのってるから面白いぜ。欲しかったら、個人的に持っていっても良いよ」
 「わあ、有難いっすけど、そうもいきませんから。実は彼女が、水族館で働いていて、海水魚が大好きなんですよ」
 「おれも好きだけどね、昔飼ってたけど、大変なんだ、あれは。手間も金も掛かってね。我が侭な女みたいなもんだよ」
 「ああ、彼女もいってましたよ。なにしろ帰りが遅いですからね。ぼくは良く迎えに行くんですけど、いつも真夜中の一時とか二時ですよ。魚の面倒を見てから帰るから遅くなるみたいで」
 「そりゃそうだろ、相手は生きものだからな。ただの物品じゃないんだから、生きもの相手の仕事を選んだら、それは仕方ないんじゃないか」
 「そうですね。ぼくはちょっと辛いんですけど。本を相手にした方がラクだと思うんですけど」
 「んー、まあ、人それぞれだよな。彼女は、でも、良い生き方をしてるんじゃないの。さっさと結婚しちゃえよ」
 「ハイッ、頑張りますッ」
 というような話をした。

 自分は人間嫌いだなぁといつも思うが、なぜか、こういう若者と話をするのは愉しく、友だちみたいに話してしまう。爺さん婆さんでも同じだけど、人間性と話をするのは好きなんだろうと思う。人間と話すのは厭なのに。
 午前のうちに古本を回収してもらい機嫌が良くなったので、午後は菊川の芋焼酎を買いに業務スーパーへポンコと走った。二パック仕入れてきた。これが九百八十円(税抜き)なのにきちんとした本格焼酎で、美味いのである。さすが菊川怜ちゃんだッと感動する。あ、関係ないかな。ついでに、今日は沢庵も仕入れ、つまみにしたのであった。コリコリと。