ポピュリズム合気はあり得るか。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 目覚めて十五分ほど後、昨日思いついた方法を試した。
 が、結果は惨敗。昨日よりも漏水の具合は減少したけれど、止まりはせず、二十数秒に一滴くらい下のバケツに落ちる。たぶん、これが業者がやった方法だと思うが、どうにもパッキンの状態を確保できず、何回も試して偶然ぴったり嵌まるのを待つしかないかと諦めた。
 しかし、今日は日曜日であり、しかも合気道のお稽古は近所の高校の武道場で午後一時からだった。私に残された時間は、少なかった。
 

 昼に娘が焼きそばを食べたいというので拵えて食べた。普通に美味かった。が、不満があった。市販のマルちゃん三食入りソース焼きそばだけど、いつも中華鍋でやるが面倒なのでテフロン加工のフライパンでやったためだった。中華鍋ならがんがん焼いて、まず麺をカリカリに焦がし、それから具材を炒め、麺を再投入して強火で痛めつけてやり、麺をほぐす水があらかた蒸発したら弱火でのんびりやさしくマゼコゼするが、テフロンで強火にすると皮膜が剥げやすいから強めの中火でやるけれど、それでもフライパンのダメージが激しいようなのでハラハラした。なので、普通に美味かったけれど、ハラハラして食欲減退したために機嫌が悪かったのである。
 

 とりあえず腹が満ちれば人間というものは穏やかになり、落ち着いて物事を考えられるようになる。私も昼食後、穏やかに物事を考えられた。
 「そうだ、やっぱ、パッキンに頼らず、コーキングを試すか」と思いついた。問題はパッキンにはなく、パイプの歪みにあり、そのせいでいかにパッキンを咬ましてもどこかが緩く、水圧に負けて隙間ができるせいで、水が滲みだしてしまうのは間違いない。それを止めるには、二つの方法しか思いつかない。ひとつはフレキパイプを交換して歪みをなくすこと、もうひとつはパイプを接合する部分にコーキング材を詰めて無理矢理水の侵入を防いでしまうこと。ケチな私が採るべき道は、もちろん後者である。
 もう稽古の時間になっていたが、迷っていた。
 コーキング材というのは凝固するまでかなりの時間を要するので、その間、水洗しにくくなる。今うちに在庫しているコーキング材は、完全凝固まで二十四時間かかる。このため、昨年か一昨年か忘れたが、錆びて穴だらけになったシンクの排水溝を修理するため、二十四時間完璧な防水処理を施さなければならなかった。これがとってもたいへんで、たまたま上手くいったから今は安心して流し台を使い放題だけど、失敗していたら、ごはんが作れないという事態に陥っていた恐れもある。
 このコーキング・ミッションに失敗したら、わが家は、健全な排便活動に支障を来すことが約束されるということを意味する。実に実に、由々しき問題である。
 

 かなり長い間悩み続けた。が、ダメ元でやるべきだと考えが動いていった。もう稽古開始の時間から三十分過ぎていた。
 私は決心した。
 やるぜッ、ベイビーッ!
 で、興奮してやったが、後の二十四時間のことはほとんど頭になく、衝動的な行為だった。
 今週はなんとしても稽古に参戦したかったので、コーキングを終え一時間遅れで稽古場に行った。ほとんど後先が見えない、鳥獣魚虫類の行動だったといえる。
 

 

 

 二週間ぶりの稽古は、やはり愉しかった。合気って、なんでこんなに愉しいのだろう、と毎度改めて思う。
 前半は演武合気道的なコツを問われたのであれこれ助言したが、後半はほぼ合気一本。一カ条固着と小手返し固着の事例を求められるままに示し、なんでそうなるのか解説しまくった。が、基本的にいうことは、自分の身体の感覚でやるしかないから、方法など教わってもできないんだピョーンということである。初めは初歩の初歩の一カ条でお悩みの人たちが、どうしたら良いんだッと攻めてきたので、こうしたら良いかもにぇと参考事例を提示し、「相手と接した瞬間に相手が崩れてないと、なにも起こらないよ」と解説した。すると、二段の意地悪なおじさんが、若者たちに「梅軒さんと正面打ちで試合みたいにやってごらん」などとほざいてしまい、対戦せざるを得なくなった。やるからには負けるわけにいかないので、ペコッと崩して潰したけど、こういうのは失敗することもあり、そうなっていたら沽券に関わるので、こちらもマジにならざるを得ない。けれど、屈強な相手だとかなりヤバいこともあり、誰でもやすやすと崩せるものでもない。どんな卑怯な手を使っても良いルール無用の殺し合いなら、当然少し時間稼ぎして刃物など仕込んでいく。手で受けると思わせていきなり、グサッと心の臓を刺すだろう。さすれば勝てるから。殺し合いなら、別に卑怯というようなものでもないし。が、稽古仲間との対戦であり、相手は後輩で、私に勝つわけにいかないなんて心理も働くはずなので、素手で相手をした。もちろん結果は、全戦全勝。だけれど、こんなことにはなんの意味もないから、やっても面白くないんじゃね、と思うのだった。

 館長が新技を開発したというので見せていただいたら、これがなかなか良かった。とても理にかなっていて、演武としても見栄えが良いので、ぜひ本式採用しましょうよと推奨した。合気というよりも格闘技系の意表を突く技だけど、理合いが面白く身につける価値はある。こんな点も武術などやる愉しさだろう。うちの館長は演武指導に重点を置いているため実戦派には物足りないようで辞めていくものが多いけど、型稽古の本質とは演武的なものであり、約束稽古の中でいかに技を発見し錬磨していくかということが重要だと気がつかないと、格闘系をやりたがる。が、力勝負では見いだせない技があり、それを発見するためには力を抜く稽古が不可欠であり、たぶんその故に型稽古という形が開発されたのだろう。でなければ、武士が牛耳っていた日本に、型稽古武道なんて存在したはずがないのだから。この辺を見落としている人が多すぎる気がするが、どうなんだろうか。
 

 後半の合気稽古はどうしても私の独演会になってしまい、「今日も会えて嬉しいぜっ、さあ、一緒に合気で崩れようぜっ、シェキナベイビー、カモナベイビー、鴨南蛮もお忘れなくッ」という感じになった。
 いわゆる武術愛好家さんなどだと、こんな記述を目にすると、ふざけた野郎だと不快になりそうだけど、私まったくふざけてはおらず、真面目そのもの。ふざけて見えるのは表現だけで、内実はかなり深遠のはずで、わかる人にしかわからないかも知れないが、わかる人にはわかる。そういう世界なのである、武術というのは。と、最近かなり強く思われている。技がわかりそうな人というのは、たいていユーモアセンスがあり、話していても愉しい人が多いから。
 ま、それは置いておき、今日口を酸っぱくして語ったのは、「相手の攻めてくる力を止めてはいけない」ということだった。私に一カ条真剣勝負をしてくれるよう言った二段の人が若者たちに体験させたかったのがこの点だろうと思い、けっこう懇切丁寧に説明した。
 要点は簡単で、相手がかけてくる力のベクトルをそのまま継続させ、相手の予測を超えるところへチラッと連れて行き、一気にそれをクルッと丸め込み、相手の体幹近くを崩す。そして、相手と接している点にかかる相手の体重を放すことなく、こちらの身体に貼り付け、相手が重心を回復し得ない方向へ微妙に運ぶ。これだけで、相手はこちらの身体にくっついてしまい、手が離せなくなる。
 もっとも、基本的に重要なのは、接した瞬間に肘固着させて相手の体重心を浮かすことだけど、この原理は単純なテコだが、テコを働かせるための天秤棒になる肘固着がなかなか作れない。相手の腕を利用してテコを効かせるためには、相手の腕は一本の天秤棒状になっていないと無理なので当たり前である。けれど、こういう点が理解できない人が多いらしく説明に困る。こんなこと、物理として当たり前なのに。
 そういう単純極まりない理屈がわからないと、「気」だとか言うようになるのだろうか?「気」というのはもちろん重要で厳粛な実在だが、武術の場合はその前に物理だろう。「気」というのは、もっと精神的なひじょうに高次元の問題であり、そうおいそれと用いる言葉ではないと私は思うので、滅多に使わない。「気なんて関係ないよ、テコだよテコ」と。この辺は同輩方ともかなりズレているのであからさまに語りはしないけど、基本は物理であり、体感覚である。気というのは、全くの別問題といって良いだろう。
 

 もう長すぎるかな。
 なにしろ問題や事件や遊びが多い日曜日だったので、書いても書き切れない。
 概ねは水の祟りでハラハラどきどきしていたが、稽古は愉しかった。
 今日も好い一日だった。
 願わくは、コーキングが上手くいき、合気のヘンなところ気がついてくれる人が一人でも増えてくれると良いのだけど。なにしろ多勢に無勢では説得力がなく、ヘンな合気が多数派にならない限り合気の復興はない。合気は今日としては、実に政治的な課題でもあるといえるだろうか。私も誰でも即席でできるポピュリズム合気を開発しないといけないのかな。
 でも、ポピュリズム的なものってあまり面白くないから、ラクして稼げる仕事以外ではのれそうにないし。心底愉しいもので、そんなことやりたくないし。
 相も変わらず、悩ましいことである。