物語の怖さ。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 最近はろくなことを考えていないため、日記もいわゆる日記らしい内容になるが、いつも頭の中にはこの前インスパイアされた子供の物語がある。毎日、プロットノートをそばに置いていて、なにか思いつけば記すけど、遅々として進まない。表現したいことが多すぎてこんがらがっているせいだろうか、と思う。今夜はなにも記すべきこともないので、ちょっとその辺を弄って脳味噌をダイエットさせようか。
 主題は、お子様の受難時代は、次世代になにをもたらすのか、あるいは、現代のわれわれにいかなる苦悩の種子を約束するのか、みたいな感じだろうか。昨今はお子様食堂なども話題になったりして、庶民同士の力でお子様方の健全な育成をなんとかしたいと頑張る人が顕在化していて頼もしく、生命はやや救われるに違いないけれど、心の傷が癒えるとは限らない。子供の貧困ということも叫ばれなんとかしなくてはならないと国や地方行政レベルでも問題視し対策をしているけど、お子様方は経済的問題の解決で救われるわけではない。身体が健全に育ち得る状況をどうにか整え得たとしても、根本的な問題の根は、なにひとつ解消されない。
 子供が貧苦に陥るのは親の貧困という事情があるからで、これにはいくらもパターンがあり、一概に親が悪いとは言い切れない。やむにやまれぬ事情で貧苦に陥る人はいくらもあり、誰であれ、そういう状況からできるならば脱したいと願っているに違いない。が、できないと、親は貧困という状況に甘んじざるを得ず、故に子供たちも貧苦に陥らざる得ない。そのパターンにもさまざまあり、親がだらしないこともあるだろうし、必死に努力しているけれど、どうにもできず苦しみ続けていることもあるだろう。
 なんて考えていると、うちは数年前に育児を終え、ギリギリ娘たちを人並みに成長させて巣立たせられたのが、もの凄く幸運なことに思われてくる。いろいろありはしたけれど、とりあえず対処不可の問題はなく、娘たちはそれぞれ自身が希望する通りの成人になった。もちろんだからといって幸せかどうかはわからないが、親としての責任はとりあえず果たせた。躾はたぶん他家より徹底したし、人間も大自然の一員であることも理解させてあるし、欲呆けの無様も知らしめてある。思想のようなことはまったくやってないが、社会生活を送る上で過不足はない生き物にできただろう。
 が、これが、もう十年後くらいまで育児を引きずっていたとしたら、そこまで整えられたか心許ない。生活苦になっていれば、家計の確保に忙しく、子供の細かなところに目が行き届かないだろうし、一緒に遊んでいる余裕もなくなっていたかも知れない。まして、貧苦となれば、育児以前にそのための必要コストを稼ぐだけでたいへんだろう。
 貧困層が厚くなるということは、子育てを阻害する故に、次世代にとって多大なリスクとなる。なんて当たり前だけど、未だに巷では裕福だの貧乏だのと面白おかしく語っているようで、情けなくなる。なんてのが、そういう物語に手を付けたくなったモチベーションかな。
 

  人間一人の背景にある事情というのは人それぞれで、とうていグループ化できるようなものではないが、科学的な手法で整理しようとすれば、類似するものを単純にグルーピングして分析しようとしたりする。けれど、そのような手法では答えなど出るわけがなく、生物のような存在はすべてが独立した個なのだから、そう簡単に括ることなどできるわけがない。私的に思うのは、生物に科学は参考以上のサンプルなど提示し得ないのではないか、ということ。
 ちょっと気分が乗ってきたので合気の話に飛んでしまおうかな。
 合気というのはもっぱら身体の感性の覚醒が肝であり、当然、その下地として物理的な理屈が必要だけど、きわめて単純な物理法則を人体に発動させ得るのは、人体の「感性」でしかない。という点は確信域に達した。なぜならば、いくら方法を教えても誰もできないからである。中にはあと一歩という人が多いけど、どうも感性が邪魔をするらしく、なかなか良い感じにならない。
 理由は当然だけど、合気の技は科学的に解析して定型化できる技術ではなく、技術を発動させるための感覚にほぼ依存していて、故に「感性」の錬磨という点に着目し、その仕組みあるいは相関性を根本で身体的に納得しない限り、発動し得ないものである、なんて感じだといえる。いくら情熱があってもできないだろうし、いかに技術面を理解しても出来はしない。そういうものらしい、と今は感じている。かなり強い実感として。
 と考えると、昔の皆伝とか免許という文言は一種の発明だったのだなと思われてくる。感性を身体が理解すれば理屈抜きにわかるが、そういう技の上達には階梯のようなものはあるけれど、見込み得る時間軸などはない。ある日突然、ヒョッとできたりするし、ここまで来たらもうすぐだろうと思っても何年も進展がなかったりもする。実に不確実で訳がわからないものである。
 たぶんそういう性質なので、途中で放り出し中途半端なまま達人気取りになったり去ってしまったりというものが続出してきたから、技の継承ということが阻害され、絶滅危惧に陥ったのではないか。
 人間の身体も心理も一人一人違うので、画一的なマニュアルで技を教えることなど不可能である。これは作文も同じだが、もっとも重要なのは感性であって、技術ではない。技術というのは感性によって発動されるものであり、逆ではない。感性が技術を鍛えることはあるけど、技術が感性を鍛えるということはほとんどないだろう。

 

 

 いや、日記の趣旨から離れすぎるとなんだから、誤魔化そう。
 貧富というのは、経済的に考えれば、知識や技術の有無によって差ができてしまうが、人間のような生き物には心みたいなものもあるから、知識や技術の修得レベルなどでは計りがたい個性差というものがあり、やけに物知りなのに極貧だとか、えらくセンスが良いのに嫌われ者だとか、裕福なのにダサいとか、仕事熱心なのにへまばかりとか、サボってばかりなのに上のウケが良いとか、いろいろある。今の時代は貧富がやたら語られていて、インパクトがあるのは貧の方だから問題視されてやすいが、ちょっと視点をずらせば富者が陥っている貧困もかなり多大で、裕福だから育児も上手くいき、立派な子孫を育て得ているとは言い難いだろう。私も何度か、大企業の経営陣の御曹司という盆暗が使い込みで摘発されような仕事に関わったことがあり、金持ちのガキってどいつもこいつもバカになってしまうのだろうか、と思ったりした。ま、そんなことはないけど、けっこう多くの事例に接してきたので、過半ではないかと感じている。
 そういう中で、貧しい系の人々と接して、こいつはバカかと思ったことはきわめて少ない。共感するせいで見方が甘いのかも知れないが、私はけっこうクールなのでだいぶ客観的ではないかと思う。育ちが貧乏だから貧に甘いのは当たり前だけど、別に富裕を蔑視していないし、今でも宝くじで一攫千金を狙っているのだから、どちらかというとセレブの仲間だろう。金はないけど、心はいつもセレブということで。
 なんて姿勢で子供の受難時代を思うと、経済という価値観がいかに子供たちにとって厄介にして迷惑な尺度であるか、と思わざるを得ない。子供だったことがある人ならきっとわかると思うけど、子供には貧富なんて関係なく、どこかで同年配のガキに出会えばお友達だし、高級品を見せびらかして遊ぶこともなさそうだし、友達と二人でコロッケが食いたくなったら小遣いを出しあってひとつ買い、二人で分けて頬張ったりするだろう。私が子供の頃の友達は、みんなそうだった。
 私は貧困家庭の子だったけど、そういう子供たちの意識文化のようなものがあったお陰か、貧困と感じたことはない。他の子は小遣いをもらっていても羨ましいと感じたことはなく、バイトして稼ぐことに引け目も嫌気もなく、むしろ愉しかった記憶しかない。自分が休みの間にそうして稼げば、また次の学期には友達と遊べると思えば、愉しみしかない。
 この世には、希望しかなかったのである。
 子供受難の物語の準主役にある福祉系に生涯を捧げて死んだ陰謀おじさんの陰影が色濃く宿るけど、この人は貧も富もない、というか、概ねは貧だったけど富の時代もあったが、富であっても生活はなんら変わらなかったし語ることも同じで、収入の大半は募金箱に投じていたのではないかと記憶している。嫌われ者で不遇な人生だったと思うが、人間として秀逸だった。
 思い出に浸りすぎると宜しくないから、そろそろ閉めよう。
 

 貧苦の中で、けれどそんな自覚もないまま親と離別してしまったある少女が、陰謀おじさんのような怪しげな老人とたまたま邂逅したなら、どのような生活を送るのだろうか、というような興味がそういう物語に走らせるのだろうか。
 陰謀おじさんは、基本的に人間の悪意に反抗し、悪意を利用して復讐しようと企み続けていた。
 が、少女には善も悪もない。ただ、お腹が空けば食べたい、気になれば見てみたい、やってみたい、面白そうな人に近寄りたいし、雨が降れば気鬱になり、晴れれば嬉しくなるというような生き物として、陰謀おじさんと関わらせたら、どんなことになるのだろう?
 ただ、それだけの興味に過ぎないが、けっこう嵌まりこめそうな気がする。
 先日、掃除の際、また陰謀おじさんから預かっていた文書が出てきて戸惑った。ある陰謀に荷担しているとき、これを読んでみてと渡されたものだった。ひと通り読んだが、陰謀おじさんの情念を燃え立たせる燃料がこれだろうと思ったけど、私はあまり燃えないので机の引き出しの奥に放置していたのだった。陰謀おじさんはもう墓の中なので、返しようがない。相続し得る縁者が一人だけいるのは知っているが、消息不明。まさかゴミとして捨てるわけには行かないし、寺や神社でお焚き上げしてもらうのもなんだし、始末に困る。せいぜい角三封筒ひとつだから、私が死ぬまで保存しておこうか。
 などとつらつら書いてみると、人間は物語を生きているのだな、とつくづく思う。
 だんだん、そんな物語だけを書きたくなってきそうで、怖い。