敵を味方とする。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 おっ、おっ、親瓶ッ! てってってっ、てーへんだぁッ!
 どっどっどーした、子瓶。
 しっしっ、下の方が、なにやらムズムズするのであります。
 やっ、そいつはてーへんだ。行くぞ、子瓶。
 ガッテンだぁ、親瓶。
 と、やっといつものごとく穏やかな朝を迎えた。
 このところ子瓶も移動が多く生活環境の変動著しかったせいか、やや不調だったが、今朝は元気にいつもの町へ巡回に出て、急ぎすぎ、また発作を起こして倒れたけれど。



 久しく業務怠慢のため頭も手も鈍ってしまったので、しばらくは頭のリハビリ書きになる気がする。今日は終日企みを捻っていたが、遅々として進まない。企みも代筆も基本は思考回路の勝手気ままな接続が肝で、膠着がいちばんよろしくない。論理の整合などどうでも良いから、とにかく次から次と思念が転がり回ってくれないことには生産効率が上がらない。発想というのは論理思考から逸脱しているもので、それだからこそ価値がある。
 どうしたら上手く発想できますか?など問われると、私は正直に告白するが、こういうことはなかなか理解しがたいらしく、ほとんど信じてもらえない。論理的な思考から面白い発想など生まれるわけがない。まして、『新しい発想』などあり得るわけがない。普通の思考の延長線上に、すばらしいアイデアなど滅多に湧くわけがない。復活自民党政権の来年を目にすれば、判ることだろう。

 新しいということは、かつて無かったから新しいのだが、かつて無かったことなので、たいてい新しいものごとは葬り去られる運命にある。世間でいっている「新しい」ものごとなど、なにも新しくはなく、通常思考の延長線上に運命づけられている当然の結果なので、面白くもなんともないことが多い。日本で新しさにわくわくできたのは、80年代が最期ではなかったろうか。
 仕事柄、私はいつでも五年十年という先を予測しながらいろいろ考え、五年後十年後に望まれる状況へ進むための選択を現在しようとすると、たいてい潰される。自慢すると、私の予測は大局的に捉えればまず外れないので、それを潰すと五年後十年後に損をする。もっとももう老化してきて予測する気も失せているので断言はしないが、そこらのプランナーとかコンサルタントとか名乗るやつらの数倍は精確にロジックを見透している。なにしろ準霊能者だから。
 ま、嘘はさておき、安倍政権の借金による懐旧対処を知り、ふむ、なるほど凡庸な知恵はこの程度なんだろうと思ったのだった。器が小さいというか、みみっちいというか。金額の大きさしか勝負球がない。緩急自在のコントロールが必要な局面だと思うが、相も変わらず幻想の成長へと向かい、途上国におんぶに抱っこで経済対処を繰り返すつもりらしい。途上国だってもう食いものにされているわけがない時代なのに。

 昨日、尊皇政治団体の会長さん他懐かしいみなさんと二十数年ぶりくらいに会って話しをした。兄弟のように接してくださり、とても愉しかった。私は尊皇という一点に拘泥しないし、君主制にも民主制にも拘りがない。なんでも良い。数十年考えてきた限りでは、絶対平和主義為民君主制というような制度が、いまのところ最善の選択肢かも知れないと考えている。
 平和を至上命題として民のために運用される君主制。たぶん、天皇制がもっともそれを実現するに適する存在だろう。
 が、天皇制の運用を求めるものたちは、強さや利権を要望している。強さよりも必要なのは、優しさであり平和である。絶対平和は必ず到達しなければならない終着なので揺るがない。民主制だと憲法九条を守れというが、あんなものは敗戦国の屈辱条文なので、理念は善いとしても条文は日本人による日本人の心に沿う言葉によって書き替えるべきである。あんな駄文を後生大事に守れという感性はすでに病んでいる。
 というような点では右翼といわれるみなさんと意見が合うが、やはり相容れない面が多いので私は活動に参加しない。多くは善人なのを私は充分に知っている。政界の方ともけっこうお会いしているが、尊皇派の人たちほど純粋で善である人間性には会ったことがない。彼らは、日本人という家族を取り戻したいのだ。誤解してはいけない。表現下手だから軍国主義みたいになりがちだが、真意はだいぶ違う。

 結局のところ、日本、日本人にとってなにが好ましいのか、という問題に過ぎない。そこに私利私欲を入れるものは、まっ先に排除すべき対象だが、いま国政にいるものたちは私利私欲の奴隷だらけ。なぜそうなっているのか、という点が大問題だが、あっさり言ってしまえば代議員を選ぶ国民が私利私欲に動かされる盆暗だらけだからというのが真相だろう。ということは、それを変えないと政治は変わらない、ということになる。宗教だの戒名だのとまったく同質の問題だが、それを変えないと、いつまでも変わらない。
 それを変えるには、祭りや怒りなどのわかりやすい強い力ではまずムリで、共感と喜びによる是正などに依るしかないだろう。レトリックと実行でやろうとした釈迦は、時間に潰された。ガンジーも頑張ったが届かなかった。クリシュナムルティーは放棄した。日本では誰だろう。思想的に傑出した人は何人もいるが、親鸞以上に進められた人はいなかった気がする。宗教という方法ではムリなのだろう。政治ではなおムリで、教育もムリ。とすると、最悪の敵である経済かな。
 私は父の遺志を継いだので、彼の理想を少しでも現実化していくつもりだが、方法論はまったく違う。父は政治と健康で、私は生業と和術とおちゃらけ。
 公共投資などに無駄金を使うのではなく、生業の創出が喫緊の課題である。失業者も半年ばかりの雇用保険など頼りにせず、生業を創らないと。生きる業さえあれば、贅沢なんてしなくても、生きていれば人生は面白いのだから。ほんとうは。

 おペタなどはもうちょっと気力体力回復してから仕返しさせていただきますので。もう眠っちゃうし。