稽古総括。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 本年の稽古納め。なぜか私が締めざるを得なくなったが、締めの御挨拶も忘れあっさり終わらせてしまった。まあ、軽い私だとこんなもの。
 指導も初めは私しかいなかったので、和術的になってしまった。基本動作の超詳細解説。合気道の稽古ではあまりやりたくないのだが、お喋りなのでどうしてもそうなってしまう。
 今夜は今年の稽古観総括にしようか。



 今年はかなり進展した。すでに、片手掴みでの浮きから相手を崩して投げる、いわゆる呼吸投げの本物系はほぼ体現しつつあるのを今日確認した。後体重で重い人、攻めてこない人には不可能だが、浮かされてしまうと人体は掴んだ手が離しにくくなり、崩されることは間違いない。
 現状の合気道を見ていると、これが喪失されたと感じざるを得ない。体捌きで大きく崩すような動きはしょっちゅう目にするが、例えば狭い通路やエレベーターの中など狭い空間でそういう状況になった時、どうやって相手を崩す気だろう?と私は疑問を覚える。もしも護身術として考えるならば、相手は「受け」ではないのだから、勝手に崩れてくれはしない。
 武系楽体の模索はそういう視点から型を見つめ直し、より小さな動作で相手を崩す必要があると結論した。その視点で型を見つめ直すと、もっとも可能性が見いだせるのは、やはり呼吸法(合気上げ)だった。
 この点は、ほんとうに真剣に、よくよく考えて欲しい。型だけの呼吸法など、なんの意味もないだろうから。
 接触した瞬間、相手の体は浮き、体各部の関節がロックされ、重心が一二点に集中して掛かり、抵抗する力が使えず、体バランスが崩れている状態にならないといけない。
 そこまでは五六年前には到達したが、その先がまた長かった。
 いかに関節をロックしようとしても、座った状態なら難しくないが、立った状態だと下半身の関節のせいか、容易に体勢を立ち直されてしまう。これをどうにかしないと、「技」にはならず、ただの「型」で終わってしまう。この三四年はその解決に費やしてきたといって良い。
 ようやくわかったのは、やはり相手が接触した点に固定されてしまう必要がある、ということ。
 『くっつく、掴んだ手が離せない』という状態にならない限り、「合気」という技は発動し得ない。
 私がこの三四年やっていたのは、相手をくっつける接着遊びだった。

 この接着剤は「重さ」だとはすでに気づいていたが、なかなかくっつかなかった。片手掴みの二カ条ではくっつく現象が現れていたが、なぜくっつくのか体がまだ理解できていなかったので不確実だった。
 今年に入り、くっつく頻度が高まってきて、体が重さの変化に以前とは比較できないくらい敏感に対応しているのがわかってきた。
 で、この数ヶ月はその「重さ」の変化をひたすら追いかける、というか味わうことだけを繰り返してきた。これが良かったらしい。
 先月から、急にくっつき感が強くなり、浮いた相手をこちらの思うように移動させることができるようになった。もちろん、まだまだ甘く、外れることも少なくないけれど、くっつく論理はほぼ間違いないと確信した。必要なのは、体の感度を上げること。力を抜くというのは、きっとそのために他ならない。
 これが「合気」の第一歩、あるいは二歩目くらいだろう、と私は思う。
 ユーチューブや演武や稽古を見ても、これはほとんど見かけないので、あえて言うが、これが「合気」蘇生へのひとつの糸口だろう。他にあるのかも知れないが、ほぼ間違いないと感じる。

 「合気」という不思議な「技」。
 それだけを解明したい。できることならば、この身に体現したい。
 十数年でようやく、相手とくっつくところまで来た。これは、ずっと夢見ていたレベルなので、ぜひ一人でも多くの方にその味を知ってもらい、「合気」再生に取り組んで欲しい。これ見よがしの演武などもう止めて欲しい。武術はほんとうに素晴らしい、人間の心身の哲学に他ならないのだから。勝ち負けやデモンストレーションなどに夢中になって、見失わないで欲しい。
 それだけを切に思う。
 というのが、本年の稽古観総括。

 和術的なものを体験してみたいなら、私はほとんど毎週土曜日、東京都町田市の成瀬総合体育館、地下の第2武道場(柔道場)で午後3時から6時まで稽古している。呼吸法に疑問を抱いている合気道家の方などは大歓迎する。ただし、浮きの意味はわかりにくいらしいので、ある程度、私が言っている意味がわかる人だけにして欲しい。いちいち説明しても理解できない人にはまずムリだから。
 興味があるなら他の格闘技の方でも素人さんでも歓迎する。老若男女、どなたでもけっこう。新年は8日から(1月22日の間違いでした。12月27日訂正)稽古する。

 今夜はもう眠いのでペタはパス。閉じるかなここも。