Tの仙術。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 Tの死を私が知ったのは、一年後のことだった。
 大学で知り合い、学食で顔を合わせればなんとなく席を共にする顔見知りに過ぎなかった。Tはいつも一人で親しい友だちはいないようだった。私と、やはり同じ学部のUと言葉を交わす程度で、他の人間と話したり肩を並べている姿は見たことがなかった。
 卒業した翌々年、何かの用事で銀座へ行った時、四丁目交差点でUとばったり出会した。卒業以来、というか四年の9月頃から会わなかった気がする。Uと私も、格別、友人というわけでもなかった。
 その時、地下鉄の入り口で立ち話して、Tが自殺したらしいと報された。たまたまUが勤めた会社が、Tが就職した会社と取り引きがあり、直接コンタクトはなかったが他の部門のものから、おまえと同じ大学出のやつが死んだらしいと聞かされた。名を聞くとTだった。
 親しい間柄ではなかったので、訃報に接しても感慨はなかった。
 しかし、ある日、たまたまTと一緒に学食でカレーライスを食べ、Tが仙術の研究をやっていて本格的に修行して体を消す技を身につけたい、と真剣に語ったことがあった。凡庸で目立つところのない彼の口から、そんな突飛な文句がでたのは意外だった。いつもやる気がないような、教室にいてもいることはわかっていても存在感がない。そばにいれば口も利くけれど、あえて近寄って話そうとも思わない。そんなタイプだったが、少なくともその話を聞かされてから、私は密かにTに一目置くようになった。
 Tにはやりたいことがある。それも公務員とかビジネスマンとかではなく、妖しげな仙術使いという点で尊敬に値すると感じた。
 普通ではないにしても、目標をもっていたTが自殺などするものだろうか。目標は捨ててしまったのだろうか。それに自殺するようなタイプには、どうしても思えなかった。明るくはないが暗くもない。どこか遁世者の雰囲気があり、白髭でも伸ばせば仙人にでも見えそうだった。
 疑問を感じると、どうにも確かめたくてしようがなくなり、仕事の合間を縫っては事件が起きた町を歩き、Tの家族を訪ね、警察に照会し、また勤めていた会社の人々や友人、知人を探った。
 素人調査に過ぎないので足を棒にしてもさしたる成果はなかったが、あながち無駄でもなかった気がする。事実関係について、幾らか私の主観が歪めるかもしれないし、既に故人とはいえプライバシーに踏み入るような面もあるので、秘さざるを得ないことが多々あるのは否めないが。

 最期の光景は、こうだった。
 Tは小さな町のブティックのショーウィンドウの鋭利に裂けた硝子に、胸を串刺しされた。晴れた昼過ぎの出来事だった。現場に居合わせた者によれば、ふっと現れ、気がつくと硝子に串刺しされていたと言う。出血は少なく、硝子を伝ってアルミ製の窓枠に垂れ、桟の溝を10センチくらいずつ血液が切れ切れに流れミミズのようだった。通りに突きだされたダークブルーのスーツの尻に、鳥のものらしい白い糞がこびりついていた。

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 通りを往来する人々は驚き狼狽えていたが、もっとも困惑したのはブティックの女主人に違いなかった。町を訪ねた私は、最初に女主人に当時のことを聞きに行った。
 ブティックといって華やいだ店舗ではなく、三階建てのこぢんまりしたビルの一階にある、奥様方の普段着を並べているような店だった。小柄でぽっちゃりした、ルシール・ポールみたいな髪型の婦人がひとりで商っていた。
 女主人は私財を破壊した若者の悪口を言ったりせず、全身から憐憫を振りまくように当時を振り返り語ってくれた。
 店の奥の棚のシャツ類を畳んだり整理していると、ちょっと形容しがたい音が聞こえ、振り向くと、ダークブルーのスーツ姿の若い男性がふと現れ、ショーウィンドウに頭から飛びこみ、割れた硝子が槍のようになったところへ倒れ串刺しになった。なにが起きたのか一瞬理解できなかったが、すぐたいへんなことが起きたとわかり、警察署に通報した。
 「あの人は、突然ふっと現れて、まるで目の前になにもないかのようにショーウインドウに飛びこんだの」と女主人は言った。
 店には冷やかしの客一人もなく、朝から時間を持て余していた。町の人通りも少なく、今日は暇だろうと考えているところだった。烈しい音がしたはずだがその記憶はない。ただふっと現れて、ウィンドウへ飛びこんできた。
 人間の体でショーウィンドウの硝子が割れるとも思えず、なにか硝子を割る道具とか石のようなものはもっていなかったか問うと、なにももたず、頭からぶつかり硝子が割れたと応えた。
 「それが普通の穏やかな顔だったのが不思議ね。思い悩むとか、誰かに追われているとか、そんな印象はまったくなかったわ。冷静な顔で、飛びこんできたのよ」

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 ほどなく派出所から巡査が二人駆けつけ、後から三台のパトカーがやってきた。短気な少年が叩き潰した粘土細工みたいに歪んだ若者の躰も、それを串刺してちょうど肋骨の間からうっすら赤みを帯びて半透明になった硝子の尖端が覗く様も、すべては手遅れなのだとあからさまに訴えていたが、やや遅れてけたたましいサイレンとともに救急車もやってきた。
 いつもは閑散としている町は、祭りの活気で賑わった。警察官たちが手分けして張り巡らしたロープの周りに人々は何重にも折り重なって、現場をその目で確かめようとした。買い物していた女も仕事中の男も、散歩途中の老人たちも商店の店員たちも、あどけない好奇心に瞳を輝かせて押し合いへし合いしていた。
 百舌鳥の餌食になったかのような若者の姿は、景気の悪い通りに、一瞬活気をもたらした。

 派出所に立ち寄ると、その時駆けつけた一人の若い巡査がいた。Tの友人だと告げると、当時の状況を思いの外あっさりと物語ってくれた。
 情景は女主人が聞かせてくれたものとまったく同じだったが、ブティックの傍らに車を停めていたタクシー運転手が警察に語った証言に私は気を引かれた。
 「見た感じごく普通の人でしたから、まさかそんなことになろうとは。あたしが、さあ行こうかなと思っていると、もう硝子に突っこんでた。止めようもなかった。ふと現れ普通の顔して歩いてたのが、あれですから、誰も気にかけなかったんじゃないすか」
 巡査は話し好きらしく、運転手の声色まで使って語ってくれた。
 女主人にも運転手にも、もっとも印象に残ったのは、Tの普通の様子らしかった。
 ごくありふれたものを印象深く見るものなどあるわけもない。ショーウィンドウ目掛けて進む普通の顔つきをしたTに誰も気を止めなかったのも無理はない。白昼の町で、ごく普通の若者がショーウインドウの硝子を破り、割れた硝子の槍に串刺しされようなどと想像できるはずもない。

 Tの母親からも話を聞かせてもらったが、彼女はなにも知らなかった。女主人やタクシー運転手よりも知らなかった。就職してから後、Tは一人暮らしして実家に寄りつかなかった。特に親子の間に軋轢などはなかったが、家にいても部屋に籠もり、いるのかいないのかすら良くわからなかった。
 Tの母から高校の卒業アルバムを借りて、三年次の同級生二人に電話をかけて探ってみたが、状況は大学の頃と変わらないようだった。一人の同級生は、こんなことも言った。
 「いてもいなくても気がつかないようなやつだったから、みんな記憶がないかも知れませんね」

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 Tは中堅の専門商社に就職していた。営業部に所属して2年目の若手だった。
 仕事熱心ではなかったし、どう考えても営業には向かないと思ったが、驚いたことに、なにか大きな契約をまとめて、将来を嘱望されてもいたらしかった。
 しかし、死の一週間ほど前から会社を無断欠勤していた。
 この欠勤の一週間にトリガーがあると思えたが、それは空白の時間だった。警察もTの足跡を辿ってみたが、ついに空白を埋められなかったらしかった。ブティックの前に現れるまで、Tの168時間は空っぽのまま。
 同僚社員にコンタクトするのは難しかったが、なんとか同年配の一人と接触できた。ある日の昼休み、会社近くのカフェで会った。
 同僚社員によれば、仕事にも人付き合いにも積極的ではなかったが、話しかけられれば誰彼と無く言葉を交わしたし、上司に命じられればきちんと客と折衝し評判も悪くなかったと言う。
 魅力的な人間ではないが、異形でもない。社内ではちょっと嫌味な感じがあったが、嫌味な人間でもなかった。引っ込み思案な性質が、そういう態度に見せていたのだろう。ごく普通の人。物に例えればティシュペーパーや歯磨き粉といったような感じかな。
 しかし、それは汚点でも弱点でもない。悪党につけ狙われる宝石よりも、河原にごろごろしている石の方がはるかに幸福なのかも知れないのだから。
 同僚社員は私が奢ったラージサイズのカフェモカを飲みながら上機嫌で話したが、ちょっと表情を変えて告げた。
 「でも、あのせいで自殺したとも考えられないですけど」
 事故あるいは事件の数週間前、Tは目覚ましい業績を上げていた。長らく停滞していた年間数億に上る契約をまとめてしまった。なにかツテがあったのか誰も知らないが、それは社運が懸かるほどのビジネスだった。
 お陰で上役からの憶えもめでたかった、という。
 警察が実施した会社における調査の中で、万に一つ他殺に繋がるかもしれない細い糸の一端として注目された状況がひとつだけあった。
 それはTが事件の一週間ほど前から会社を無断欠勤するようになる、直接の動機となったとおぼしい出来事だった。
 Tの人を侮るような態度に、些細な成功を鼻にかけて周りの人間を見下していると感じたNという同僚が、彼に詰め寄った。無断欠勤する前日だった。周りの人間たちの仲裁で大事には至らなかったが、剣呑な空気がオフィスに充満したという。
 「しかしNの気持ちは、僕らも少なからず感じていたと思いますよ。実際、Tの物言いはちょっと度が過ぎていたと思います。僕自身我慢していたし、まあ、偶然手柄を立てた新入りの思い上がりくらいに思っていたのですが、同期で細かい仕事ばかりやっていたNにしてみれば我慢できなかったんでしょう。といって、Nは人に危害を加えるような人間ではありません。これは断言しておきますし、Tが事故にあった日、Nは終日事務に忙殺されていたんです。僕もそこにいたし」
 Nに対する念入りな聴取も成されたが、Tが硝子に串刺しされた日、確かにNはオフィスで雑多な事務書類の作成や処理に忙殺されていた事実が確認されただけだった。
 私は同僚社員にNの証言を可能な限り詳細に教えて欲しいと頼み、ICレコーダーに録音させてもらった。それは、次のような内容だった。
 --わたしが文句をつけた翌日からTは欠勤するようになりましたが、こちらだって欠勤したいくらいの気分だったんです。それでも仕事が滞ってはみんなの迷惑になるから仕事をするんです。もちろん手柄を立てたいし、Tのことを羨む気持があったことは否定しません。嫉みといわれても、別に反論する気もありません。嫉むのはおかしいですか。誰だって成功したいんです。それを、あののらくらしている人間がどんな手を使ったかしらないけれど、ジャンボ宝くじにでもあたったみたいに、われわれの何百倍もの手柄を立てて、嫉まない人間なんてあまりいないでしょう。
 --Tは、まるで他人はこの世にいないかのように振る舞っていました。眼中に無いという感じで、こちらは空気というか透明人間みたいなものですよ。彼がでかい契約をものにしてからは、上役は誰も彼も、TくんTくんですからね。
 --正直言って、恨みましたよ。今でもTに同情なんてしていません。ざまあみろとも思いませんが、たいした感情はないです。冷血だといわれても構いません。わたしは特に感情的になっているかもしれませんが、後ろめたい気はありませんよ。

 事件はそもそも事件としての体を成していなかった。
 殺人の可能性を示す証拠はひとつもない。自殺という可能性は濃厚にあったが、それを立証するものもなにもない。
 一連の調査から浮かび上がってくるのは、事故という処理がもっとも妥当だという事実だけ。
 ここに記録した数十倍もの証言や傍証を収集したけれど、それらのどれを検討してみても、ここに記録したこと意外の事実はないと思われる。
 結局、なにもわからなかった。
 Tはついに念願の仙術を手に入れたのではなかったか、と私はふと思った。

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