植物教。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 筆を抑えると欲求不満になる。明日は終日多忙だし今日は引きこもり研究だしご老公様も見えないので、日中から長々と憂さ晴らしでもして遊ぼう。研究と言ってもややこしい実験はなく、頭の中でへらへらとやる。本日講師にお招きしたのは、植物学の牧野富太郎先生。

 「花は、率直にいえば生殖器である。」と、宇田川榕庵のオマージュでもないが“花は動物の陰処の如し、生産蕃息の資て始まる所なり”を引いて語り始める名著『植物知識』を著された牧野先生は、かの偉大なる《植物教》の宗祖で在らせられる。植物学には疎いが、私も隠れ信者の一人である。
 《植物教》には、禅宗と同じように不立文字を原則とするためか主たる経典がない。牧野先生には立派なご著書が幾つかあるけれど、それらはあくまでも学識を深めんがためのテクストであり、先生の高邁な教えを伝えるために著された経典ではない。
 故に、信徒は経典に頼ることなく、先生がテクストに秘めて語られた僅かな教え--例えば、「植物にはなにゆえに種子が必要か、それは言わずと知れた子孫を継ぐ根源であるからである。」とか、「われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎(かこ)つであろう。」とか、「そしてそれが人間の心境に影響すれば、悪人も善人になるであろう。荒んだ人も雅びな人となるであろう。罪人もその過去を悔悟するであろう。」とか--を胸に、トコトコと野辺を辿り草木を愛でたり図鑑を眺めてうっとりしたりしつつ瞑想に耽るのみなのである。
 レモンがあったので、ご著書と一緒に記念撮影。

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 しかし、先生は『植物知識』の後書きにおいて、明快に《植物教》樹立の宣言を発した。

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 自然の宗教!
 その本尊は植物。なんら儒教、仏教と異なるところはない。今日私は飽くまでもこの自然宗教にひたりながら日々を愉快に過ごしていて、なんら不平の気持はなく、心はいつも平々坦々である。そしてそれがわが健康にも響いて、今年八十八歳のこの白髪のオヤジすこぶる元気で、夜も二時ごろまで勉強を続けて飽くことを知らない。
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 先生も多くのカルト教祖のように強烈な思いこみを有し、よって幾らかの誤謬もあるとは、信者たる私も知っている。例えば、

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 植物の研究が進むと、ために人間社会を幸福に導き人生を厚くする。植物を資源とする工業の勃興は国の富を殖やし、したがって国民の生活を裕かにする。ゆえに国民が植物に関心を持つと持たぬとによって、国の貧富、したがって人間の貧富が分かれるわけだ。貧すれば、その間に罪悪が生じて世が乱れるが、富めば、余裕を生じて人間同士の礼節も敦くなり、風俗も良くなり、国民の幸福を招致することになる。想えば植物の徳大なるかなであると言うべきである。
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 と言うような論理。このような飛躍に陥ることは多く、そのまま鵜呑みしてしまえば多大な過誤を生じる危険もあるが、そのような点を拭って余りある豊饒が先生の教導思想にあると私は心酔して止まないものである。
 人間であるならば、きっとなにかしら思いを抱き、なにかを信じ、どこかを目指している。それが可視であれ、不可視であれ、そういうものだろう。不可視が心を揺らがせるけれど、ひとつ己は生まれてここに在ることのみ信じているならば、それもひとつの救い。草木は実在すら知悉することなく、そこに在り、生殖活動に勤しみ、生命を繋ぐではないか。

 先生は実に明朗快活な筆を揮われ、健全の光で信者を照らしてくださる。時になんて脳天気な爺さんなんだろう!と呆れるけれど、その心根の馥郁たる奥行きに陶然とする。質素純朴そのものの論理思考言動。類い希な、健全な、脳天気。人類をお救いくださるのは、やはり先生の御心しかない、と私は植物経を唱えたくなるのだが、あいにく経典がないので、にやけつつ先生の口舌に双眸をひたすのみ。先生の偉大な脳天気経は例えば、こういう思想。

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 世のいろいろの宗教はいろいろの道をたどりてこれを世人に説いているが、それを私はあえて理窟を言わずにただ感情に訴えて、これを草木で養いたい、というのが私の宗教心でありまた私の理想である。
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 これは正に芸術が志向することであり、アニミズムの原理っぽくもあり、われわれ信者は先生に啓示いただいた「感情」を胸に、あれこれと思索を勝手に巡らすわけだが、ここに見られる性善説的思想は、言うまでもなく、人間は本来自ずから善を志向する、という前提に立つ。その原理により、草木を愛で接することで、人間本来の善を顕現させようというお考え。私はここには大きな欠落があると考えているが、善導のメカニズムはまったく正しいと感じる。
 生物は交感する。響き合い、引きつけ合い、影響し合う。善いものに触れれば善くなり、悪いものに触れれば悪くなる。太古から知られているメカニズム。
 人間が、草木の純真を感受できる感性を発動できるならば、《植物教》は人類を救い得るだろう。が、惜しむらくは、感受できるとしても、植物が発する純真を心という漠然とした世界の奥に届け、知覚にまで影響させ得るとも思えない。ここに《植物教》の重大な欠落を感じる。
 先生の尊大極まりない純真素朴の真心を、後世のわれわれ信者はいかに受け止め得るか。そこが重大事。
 もしも、生後数年の間にこの偉大な《植物教》の意志を理解し得る感性がすべての人間に贈られるものならば、人類は先生が仰有られる通りの花園に旅立てることであろう。

 とか、こども園へ移行して量を確保しても、現場では質が落ちるなど腐していることを思いだし、初期教育の「質」ってなんなんだろうと考えてしまったのだった。こども園では《植物教》を導入したら良いな。よい子のみんなが草木に向かってぶつぶつお経を上げていたりすると不気味だが、こども園はぜんぶ自然遊園地にして、余計なカリキュラムはすっ飛ばして、草木の中で近所の高齢者さんヒマしてるお兄さんお姉さんたちと楽しく遊んでいれば、三・四十年後は幾らか安穏となるのではないか、と夢想したり。
 牧野先生は寺子屋中退だったらしいが、そのお陰で偉大な功績をなし得たような気がしなくもない。