彷徨えるお骨 | 無精庵徒然草

無精庵徒然草

無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

 今日は、浅草サンバカーニバル の日。
 既にパレードも終わって、コンテストの結果も出て、チーム毎に一喜一憂していることだろう。
 今年は、喪中なので、上京は我慢。



 昨日、ほぼ一週間ぶりの炎天下での庭仕事で疲労困憊し、午後は何もやる気になれなくなった。
 午後の四時過ぎ、今日金曜日のうちに図書館へ行ってCDや図書の返却、新規の借り出しをしただけ。
 土日だと、図書館の駐車場が満杯で車を止めるのに時間が掛かるのだ。
 普通なら午後の二時過ぎには図書館へ行って、じっくりCDや本の物色をするのだが、遅めに行ったので、そんな時間もなくなってしまった。


 小生はどんな体調であろうと(黄疸の症状が出て死に損なった日でも!)、どんなに忙しかろうと、日に50頁は本を読むことをノルマとしている。
 それが、昨日は30頁も読めなかった。
 体力の消耗ぶりが分かろうというもの ? !



 昨日の失敗に懲り、慣らし運転じゃないけど、今日は作業着に着替えたりせず、自宅で過ごすカジュアルな格好のまま、午前は庭で簡単な片づけ仕事をするだけのつもりだった。
 昨日、伐採したアメリカシロヒトリにやられた柿の木の枝葉や杉や松の枝葉を小さめに刈り込み、70リットルのゴミ袋に積める、それだけをやるつもりだったのである。



 まる一日、庭のコンクリート面の上で干した枝葉は乾ききっている。
 成長したシロヒトは、しかし、まだしつこく生き残っている。
 あざといほどに鮮やかな黄緑色の、トゲトゲのサナギ。
 トゲだらけの体だし、刺されると、とても痛い。


 だからだろうか、鳥たちも、無防備なはずのシロヒトたちを啄ばんだりしない。
 さすがに弱っているのか、何匹かは路面に横たわり、アリたちの攻撃を受け、弱々しく抵抗している。


 
 そういった枝葉をビニール袋に詰めているうち、一袋が二袋となり、せっかくだし、ついでだからと、四十九日の法要に向けて、バッサバッサ刈り込んだまま、庭のあちこちに乱雑に落ちている松や杉やミカンやツツジ、泰山木、サツキなどの枝葉をも、ノコギリなどで短く刈り込んで、袋に詰めていくようになる。
 段々、意地になって詰め込むうち、とうとう袋が4つになってしまった。



 それでも、伐採し散在している枝葉は拾い集め切れない。

 これ以上、炎天下で頑張ると、また精魂尽き果てると思い、さすがに今日は一時間ほどで自重した。
 そのあとは、恒例の水浴び、洗濯。



 今日のイベント(?)としては、親戚の家のお墓の相談に乗ったこと。
 といっても、小生がお墓の相談に乗れるはずもなく、小生が葬儀や法要でお世話になっている近所のお寺の住職を紹介しただけ。
 ただ、紹介した以上は立ち会う羽目になったわけである。



 小生も、子どもが居らず、先祖からのお墓はあっても、小生の後のことは見通しが暗い。
 誰かが我が家の墓守をしてくれるとは到底、思えない。誰も、そんな人間は見当たらない。

 相談に乗った家も、ご主人が亡くなって奥さんが家を守っているが、家にはその奥さんの息子さん(小生とほぼ同じ年齢)がいるだけ。
 その息子さんは独身で子どもがいない。
 今現在、その家には近くにその家のお寺も墓もない。
 仮に今から作っても、息子さんの代はともかく、その先の見通しがつかない。



 だったら、何処かのお寺にお骨を収めさせてもらい、永代供養をしてもらうのがいい、その際には、その家の奥さんと縁続きである小生と関わりのあるお寺にお世話になるのがいいだろう。
 共同の墓地にお骨を納め、ずっと弔ってもらうということにすれば、その奥さんらにしても、安心なわけである。

 いろいろ事情があって、難しいのだが、紹介したお寺の住職さんも快く相談に乗ってくれ、その家の方たちの納得の行く形にしてくれた。


 
 それにしても、現代のお墓事情はなかなか厳しいものがある。
 核家族化し、先祖代々の墓に入れる幸運な方は段々、少なくなっている。
 仮に我が家のように代々の墓があっても、その家に後継者がいなければ、つまりは墓を守る人がいないわけで、先祖代々の立派なお墓など無意味になりかねない。


 都会だと、団地風な共同墓地(施設)があったりするのをテレビで見たことがある。
 冨山では、(土地はありあまっているので)まだそこまでにはなっていないが、事情は似たようなものなのだろう。



 我輩に付いても、父母は代々のお墓に納骨したのだが、小生自身は、死んでもお墓に入れてくれる人がいるとは思えない。
 となると、小生の生前…小生がそれなりに生きている間に、近所のお寺に小さなお墓を作らせて貰い、そこに収めてもらうよう、心がけておかないといけないのだろう。


 死ねば野となれ山となれ…というわけにはいかない。
 葬式も何も、あとに残るものの始末のための心がけなのだろう。