この22日(日)に催された四十九日の法要。
その日に向け、家の中はもとより、家の外…庭や畑の整備も頑張ってきた。
その法要が終わって、やれやれ、という気分になり、なんとなく拍子抜けの気分。
相続の問題を控えていて、気が重い(シビアーな話し合いになりそう)。
体のメンテナンスの問題も抱えていて、これまた気が重い。
来月、遠くの地の親戚の者が、七月に亡くなった父のお参りに来る。
当然、家主たる小生は出迎え、世話することになる。
あるいは、母の親戚の者の四十九日の法要が来月、控えている。
他に、つい先日、意識不明で病院に救急車で担ぎ込まれた近い親戚の方がいる。予断を許さない状況らしい。
とりあえずは家の主たる小生が関わらないといけない。
これらをクリアーして、入院となると、実際に病院で治療を受けられるのは、早くて九月末、あるいは十月以降となる。
ある程度、体を直してから、仕事につきたい(探したい)から、無事、退院してから活動再開となると、十月の半ばか後半となるやもしれない(病院での検査で、他に病気が見つかれば論外となるが)。
バイトをやめてから入院するかどうかも、迷うところ。
退院して、すぐにうまく仕事が見つかるという保証もない。
となると、退院後も今のバイトを続けさせてもらうか。
でも、このバイトでは生活が維持できないのは明らか。
いろいろ悩むことが多い。
それはそれとして、家の中もだが、家の外もメンテナンスが必要。
庭木の枝葉の剪定、というか刈り込みもまだまだ必要(法要までの刈り込みは、あくまで緊急の間に合わせの作業に留まっている)。
が、近所の畑の隅っこに植えられ育っている柿の木がアメリカシロヒトリにやられている。
その畑は、以前は我が家の田圃だったが、数年前、手放したもの。
その土地は飛び地になっていて、道路からは他人の土地(家の庭)を通らないと入れない土地。
なので、その土地は所有者は今は遊ばせている状態。
ただ、土地を遊ばせると雑草の野になりそうなので、近隣の方たちに分割して(只で)貸している。
近隣の方たちは、畑として有効に活用されている。みんな長年の活動の賜物で、立派な畑に仕立てている。
要は、管理の代わり、近隣の方たちに無料で畑として使わせているわけである。
問題は、その柿の木がある区画。
一体、誰が借りていて、管理しているのか不明。
もしかして我が家が借りている区画なのか?
だとしたら、柿の木は我が家が、つまりは我輩が世話しないといけないことになる。
その点が、小生、よく理解していない(父から詳しく聞いていない)。
いずれにしても、父母が動けなくなってからは、全く耕作を放棄している。
近隣のある方が、あまりの荒廃を見かねてだろうか、そこに苦瓜を育てている。
あまり、手間が掛からないから、なのかもしれない。
自分の担う区画だったら、他の野菜を立派に育てるはずなのである。
上記の柿の木は、その(もしかしたら我が家が担っているかもしれない)区画の隅っこに立っているのだ。
すぐ脇には、ブロック塀を隔てて隣家がある。
その柿の木、アメリカシロヒトリが柿の木を荒らし過ぎていて、柿の木の葉っぱがほぼ全滅、緑色の葉っぱがなくなって、みんな褐色になっている。
今日は、我が家の庭木の剪定(刈り込み)の前に、その柿の木のシロヒト退治をまずやった。
例年なら、遅くとも七月のうちに退治するはずが、今年は、あれこれあって、対処が遅れ、枝葉の大半がシロヒトにやられてしまっているので、思い切って、枝葉の全てを伐採した。
あの枝もきらないといけない、この枝もダメ、なんてやっていたら、結果的に全部の枝葉を伐採する羽目になったのである。
柿の木は、哀れ、トルソーのようになってしまった。
秋が過ぎ、冬が近付く頃、大概の枝葉が涸れ落ち、木の実は食べつくされた頃、最後の餌の一つが、この柿の木だった。
柿の木になる、恐らくは渋柿だろう、木の実を、いろんな種類の鳥たちは代わる代わるやってきては、柿の実を食べる。晩秋になっても朱色にはならない柿の木の実で、恐らくは渋くて食べられたものではなかろうが、それでも、背に腹は変えられないとばかり、柿の実は食べられていって、冬の真っ盛りの頃には、いよいよ木の実の一つもない、丸裸の、枝が目立つだけの柿の木となるわけである。
それが、今年は、小生の対処が遅かったばかりに、今のこの時期にすでに柿の木は、丸裸どころか、トルソーになってしまったというわけである。
今は、鳥たちには影響はないが、晩秋になれば、頼みの綱がないことに、あるいは鳥たちは気付くだろうか。
あれ? あてにしてた柿の実がないぞ! とか。
気付くはずはない…、見守る小生が、遠くからトルソーの柿の木を見て感慨に耽るだけなのだろう。