1-3-11 | 風の庵

1-3-11

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 翌日、アーノルドとの約束の時間より少し前に魔術師ディードが訪れた。明日、彼の住まいのあるルエンへ帰るのだという。
 最後に顔を見ておこうと思ってな、と笑みを浮かべた魔術師の黒曜石の瞳はいつものように穏やかだった。

『なあ、ローランド』

 魔術師はじっと少年の目を見つめた。時折その瞳の奥に深い叡知の光を見出だしては畏怖に囚われる。少年は無意識に体を強張らせた。

『お前が望むなら、お前を連れて帰ろうとずっと思っていた。今の環境はお前にとって良くない』

 目を丸くしたローランドに魔術師は不思議な笑みを浮かべた。

『だが、やめる。お前は自分から母親を捨てることはない』

 そうだろう?とディードは言った。小さく頷くと、父と同じことを言いながら、父とは異なり自分に配慮を示す魔術師に温かい感情を抱いた。
 確かに母1人をここに置いては行けない。しかしディードなら一緒にいてもいいと思った。

『私はもう行かねばならんが、もし何か困ったことがあればいつでも私を頼るといい。私の名はアディランド・デンダールだ』
『ディードさん・・・』

 少年は驚きに包まれた。魔術師は真名を簡単に他者に知らせない。男がどれほど不幸な少年を気遣っているか、その証―――嬉しくも心苦しい。咄嗟に全てを打ち明け、縋りたくなる。しかしそれを思いとどまり感謝だけを伝えた。
 少年の頭にポンと手を置くと黒髪の魔術師は微笑した。

『達者でな』

 もう会うことはないだろう。彼の差し伸べた手を取れたらどんなにか良かったか。喪失感にも似た感情を抱きながら、少年は小さくなる背をずっと見送っていた。
 魔術師が去ってから入れ替わるようにしてアーノルドが現れた。この面会が果たされればローランドは男爵に引き取られることになる。しかしローランドに最初からそのつもりはなかった。
 どんなことが待ち受けていようと、それを果たさねば解放はない。僅かな躊躇いも鏡のような存在を目に入れれば容易く凍りつく。

『言っておくが、顔を見るだけだぞ。妻に悟られぬように出てくるのがどれほど大変なことか!』

 不機嫌そうに吐き捨てる男の横顔を褪めた目で見つめた。後幾年かすれば自分はこの男のようになるのだろうか。同じ顔、同じ身丈、同じ声――自嘲が浮かぶ。

『もちろんです。無理を言ってすみません』

 密かに拳を握り締めながら殊勝に告げるとあっさり男は騙された。少し機嫌を良くして少年の案内に続く。
 あんたがするべきこと――見るだけでいい。
 見ればいい――あんたの罪を。

 最奥の部屋へ入ると奥の寝台へ目をやった。しかしそこはもぬけの殻。視線を巡らせて窓際に佇む姿を見つけ驚く。滅多に寝台から出ることはないというのに。

『母さん』

 呼び声にゆるゆるとこちらを向いた母の緑の瞳はやはり虚ろだった。後ろでアーノルドが息を呑むのが分かる。記憶にある姿との差異に驚愕しているのだろう。母は美しかった。しかし痩けた頬と落ち窪んだ眼。青褪めた肌はさながら亡霊――妄執ゆえに歪められた美。

『アーノルド・・・アーノルド・・・?』

 男の姿を捉えたマリノアの瞳に微かな生気が宿る。呼ばれた男はビクッと身を震わせた。覚束ない足取りで近付いてくるかつての女に引き攣っている父を、少年は冷静に促した。

『父さん』
『な、何だ。もういいだろう。顔は見せた』
『それではまた暴れます。1度抱き締めてあげて下さい』
『冗談ではないっ・・・狂人だぞ?』
『抱き締めるのはそんなに難しいことでしょうか。父さん相手なら大丈夫です。母さんは10年それだけを望んでいたんですから、叶えば大人しくなります。父さん、些細なことです。そうでしょう?』

 上目遣いに懇願すると、顔を引き攣らせたままアーノルドはマリノアを見詰めた。

『これが最後なんです。どうかお願いします。ほんの少し演技して下さるだけでいいんです』
『・・・少しだけだぞ』

 渋面を浮かべるとアーノルドは嫌そうに足を踏み出した。

『本当にアーノルド・・・?わたしのアーノルド・・・?帰ってきてくれたの?』
『あ、ああ・・・私だ、マリノア』
『ああ・・・アーノルド!アーノルド・・・!』

 アーノルドが腕を伸ばし、抱き寄せるとマリノアは涙を浮かべ、面を笑みで満たした。ローランドは驚いて目を瞠った。アーノルドも意表を突かれたような顔をしている。幸せそうに笑う女は美しかった。たとえみすぼらしくなっていたとしても。マリノアという女は美しいのだ。一時の情であったとしても、かつて男爵が激しく求めた程に――
 同時に諦めに似た笑いが込み上げる。男と少年の間の大きな差――母の中にはあの男しかいない。諦めと嘲笑と憤りが相俟って渦巻く。
 演技と割り切ることにしたのか、アーノルドはマリノアを慰めることに集中しているようだ。強く縋りつき、口付けをねだる女に男は身を屈める。

『アーノルド・・・アーノルド・・・待ってたの・・・ずっと、ずっと・・・ああ、愛してるわ・・・あなたも本当はわたしを愛してるでしょう?だから迎えに来てくれたんでしょう?』
『も、勿論だ、マリノア。私が愛していたのはお前だけだ』
『信じてたわ・・・!もうどこへも行かないで!あなたさえいれば何もいらない。またわたしを愛して』
『心配いらない。私はここにいる』

 両親の奇妙な再会を無表情に見つめていた少年は静かに踵を返すと、寝台脇の小テーブルに向かった。母は幸せだ。自分の存在など彼女の内には無いだろう。また引き離せば今度こそ手に負えない廃人になる。だから――幸せなまま終わらせる。それが哀れな女のため――そして男の贖罪。
 熱いほど興奮しているのに心は不思議な程冷めきっていた。何も考えずに、それを手に――

『・・・え?』

 ない。

 そんな馬鹿な。

 母の部屋に入るのはローランドだけだ。だから誰かが持って行く筈などな―――

『愛してる・・・もう絶対に離さないわ・・・あなたがわたしから離れようとしてもわたしはあなたを離さない・・・あの女のところへなんて、行かせない』
『マ・・・リ、ノア?』
『わたしだけのアーノルド・・・!』

 脳髄を電気が走り抜けた。弾かれたように振り返ると、アーノルドの背にしっかりと腕を回した母の手に――それはあった。その身の殆どを黒い布地の奥へ埋め込んで。

『なっ、にを・・・っ!ぐ、ぅッ・・・』
『あなたが、悪いの・・・わたしを裏切った、あなたが・・・』
『マ、リノ、ッア・・・』
『でも、許してあげる・・・わたしの所に戻って来たから許してあげる・・・もう離さないわ・・・愛してるわ・・・アーノルド・・・』
『こ、のッ・・・謀った、なっ・・・!魔女、め・・・』

 離れようともがく男を、一体どこからそんな力が湧いてくるのか、強く抱き締め離さない女は、より深く刃を突き立てた。掠れた喘ぎ声が部屋に響く。

『あ・・・あぁ・・・く、るし・・・やめ・・・』
『愛してる・・・愛してる・・・憎らしいほど愛してるわ・・・』

 刃を引き抜く。鮮血が噴き出る。呆然と立ち尽くしていた少年は不意にその母と目が合った。
 そして母は、艶やかに――そして慈しむように笑んだ。

『ローランド』
『・・・っ!か、ぁさんっ・・・』
『ごめんね』

 迸るように溢れ出た熱い涙が視界を多い尽くした。唇が戦慄いてうまく言葉が出てこなかった。

――母さん!母さん母さん母さん!

『マ、リ、ノアッ・・・』
『人を呼んで来なさい』

 床に崩れ落ちた父の側で微笑む母はまるで、正気のようだった。真紅に染まった包丁を手に佇む母は。

『誰か大人を呼んで来るのよ、ローランド』

 足に根が生えたように突っ立っていた少年は再度の呼びかけにハッとすると、床に伏した男と血溜まりにようやく事態の緊急性を認識した。
 今更になって震えが身体を襲い呼吸が苦しくなる。
 人が――人が死ぬ。
 今さっきまで自分がそれを成し遂げようとしていたというのに、現実それを目にして言い様のない恐怖――戦慄に包まれる。

『さあ、早くお行き』

 場違いに冷静な声に急き立てられ、よろめきながら戸口へ行き、ぶつかるようにしてドアを開き外に飛び出る。走って声を上げた。娼館中に聞こえるほど叫んだ。




『全く、とんでもない疫病神を抱え込んだもんだ』

 隣の部屋から漏れ聞こえる嘆息。膝を抱えて壁に凭れ、灰色の床をただぼうっと見つめていた。

『どうするよ、あのガキ』
『どうするもこうするもここには置いとけないよ』
『まだ女なら使いようがあるが、いくら顔が良くたって男じゃな』
『ふん、いっそ男娼にしてやったら?』
『それも有りかも知れんな』
『ったく、とんだ目に遭った。路頭に迷わねえように破格の待遇で引き受けてやったってのに恩知らずにも程がある。騒ぎのせいで客足が遠のいちまった。公安には探られるしよ』
『それもこれも10年前マリノアを好きにさせたのがいけないよ。娼婦は娼婦らしく裏の世界で生きてりゃいいのに下らない夢なんか見るから!それを許したりするから!あそこでぴっぱたいて目ぇ覚ましてやればまだまだ稼げたのに』
『何よ、アタシのせいだって言うのかい?それを言うならアンタだって――』
『おい、やめねぇか!今はあのガキをどうするか決めんのが先だろが』
『いいよもう、追い出しちまいな。そもそも後先の面倒なんか見てやる義理はないよ。力仕事が出来るわけじゃなし、使えやしない。前からスカしたあの口の利き方ムカついてたんだよ』
『でもアンタ、ただ放り出すにもあのアバズレのツケが貯まってるよ。どうするんだい』

 そこでまた声が小さくなった。どこか他人事のようにそれを聞きながらローランドは目を閉じた。
 しとしとしとしと。雨が石畳を打つ音が聞こえる。

 孤独だ。

 少年はこの世界に独りだ。
 人を呼んできた少年が目にしたのは、男に寄り添うように伏した女の姿だった。細い首元を彩ったそれは、まるで花のようだった。

 置いていかれた。

 最後まで彼女は母より女であることを選んだ。しかしそれはどこかで初めから知っていた結末。こうなることを望んでいた。幸せな終わりなどないから、苦しまずに済むよう終わらせたかった。彼女も、それを知っていた。
 男への怒りと女への哀れみから綱を断ち切る道を作ったのは少年自身。ひとつの誤算は実行したのが少年ではなかったことのみ。それでも、事実上両親を殺したのは自分。そう差し向けたのだから立派な殺人者だ。
 これでいい。
 後は、自分も死ぬだけだ。

 親殺しは重罪だ。生きている限りそれは変わらない。明日を欲することなど、もう――家族も家もないのだから。借金のカタに売られようと、ここで酷使されようと同じこと。
 凶器の入手経路はすぐに露見した。少年は罵られ、酷く殴られた。憲兵につき出されなかったのは、まだ幼い事と、直接加わった訳ではないと判断されたからだ。

 食欲も気力も無かった。
 一度も泣かなかった。青褪めた覇気のない少年は娼館の片隅で邪険に扱われた。
 何もせずに数日沙汰を待った。

 ある日支配人が少年を押し込めていた黴臭い部屋を訪れた。

『来い、坊主』

 衰弱した少年が連れて行かれたのは胡散臭いくらいに華美な応接室だった。部屋へ入った途端に目を見開いた。

『連れて参りましたよ、先生。さあどうぞ』

 客人の視線に応じて支配人は退室した。それから客人は口を開く。

『数日ぶりだな、ローランド。痩せたか?』
『ディ・・・ドさ、ん』

 穏やかな夜空の瞳が少年を迎えた。

『帰るぞ』

 そう一言、黒の魔術師は立ち上がって戸口へ向かった。

 帰る・・・どこへ。
 帰る場所など、ない。

 分かりそうで分からない。心身の疲弊が手伝い、頭が考えることを拒否する。立ち尽くすローランドを少し振り返ると男は顎で示した。

『来い。お前は今日からローランド・デンダールだ』


 それが全てだった。


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