1-3-10 | 風の庵

1-3-10

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 その雨の日もローランドはお使いに出ていた。傘はなく、晩秋の冷たい雨がどんどん体温を奪う。頼まれたものが濡れないようにと上着の中にしっかり包み込んだ。
 靴は水が染みて、歩くたびに不快な音を立てた。足首まであるスカートの裾は泥が跳ねて汚れ、男装のときよりも濡れた服は重く感じた。
 道を行く馬車に水飛沫をかけられてげんなりしながら、やけに遠く感じる帰り道、自分を励ましながら歩いていたときのこと。

『ロー、ランド、か?』

 聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前に黒い傘をさした身なりの良い男性が立っていた。

『やはりローランドか?一体どうしてそんな恰好を――いや、それよりずぶ濡れじゃないか』
『父、さん』

 何故かは分からない――思わず口をついて出た言葉に男性は微笑むと、更に近付いてローランドを傘に入れた。

『このままでは風邪を引く・・・来なさい』

 呆気に取られ、断る機を逃して促されるがまま、少し離れたところにあった箱馬車に乗り込んだ。アーノルドは馬車を進めさせると、あるところまで来て馬車を止めて降りた。
 それは立派な石造りの建物で玄関には大きな木製の扉があった。ポカンと眺めるローランドに笑うとアーノルドは少年を中へ招き入れた。

『ここはブランデンベルク家の邸宅だ。領地とは別に、王都滞在用にある』

 内装もまた見事なものだった。アーノルドは女中を呼ぶと少年を引き渡し、ローランドは浴室へ連行され熱い湯を浴びせられ、汚れた服に代わり清潔で上質な子供服が与えられた。
 風呂から上がると応接室に通され、そこの立派な絨毯や布張りのソファ、高そうな花瓶、壁の絵画等々に目を白黒させていると、アーノルドはそんな少年を微笑ましく眺めた。
 座るのが躊躇われるソファを勧められ、おずおずと腰かけたローランドにアーノルドは甘いホットココアを運ばせた。嬉しそうに飲む少年をアーノルドはしばらく見ていたが、やがて口を開くと何故雨の中をあんな恰好で歩いていたのかと尋ねた。
 しどろもどろになんとか説明したローランドにアーノルドは不快そうに眉を顰めた。そして強い眼差しでローランドを見た。

『娼婦の子とはいえ、我がブランデンベルク男爵家の血を引く男子が小間使いの真似事など、許されることではない。まして女の姿など・・・今の話を聞いてなお、悠長に待ってはいられん。ローランド、私はお前をブランデンベルク家の人間として私の元に引き取る』

 唖然とした少年に男爵は言った。

『お前は私に驚くべきほどそっくりだ。そのお前をこの王都で放しておいたらどんな噂が立つかも知れん。そうなる前に先手を打って私の子として披露した方が後々問題が少なくて済む』
『どうして、今なんですか?10年放っておいたのに・・・』

 かねてからあった疑問をぶつけた。それに対しアーノルドは平然と、こう言った。

『私には結婚して10年になる妻がいる。だがあれはうまずめなのだ。何という貧乏クジを引いたものか。この10年子ができなかった。あれは格上の家の女である上に嫉妬深く、妾も作れん。だが跡取りは必要だ。そこで私はお前の存在を思い出した。ちょうどお前は男で私によく似ている。そう頭も悪くなさそうだ。
 お前にとっても悪い話ではないだろう?良い家と良い暮らし、良い教育も受けさせてやる。毎日美味い食事と立派な服を着られるんだぞ。将来は我が男爵家の跡を継ぎ贅沢が出来る』

 今の底辺にある大変な生活から解放されるのだ、と告げられローランドは目を瞬いた。それはまるで夢物語のようにも聞こえた。客の取れない母、年端もいかない少年、娼館にとってはごくつぶしも同然で、いくらローランドが働いても以前ほど待遇は良くなかった。毎日扱き使われる生活は10歳の少年には落ではなかった。
 だが同時にこの男に対し違和感を抱いたのも事実だ。どこか、人を見下したような態度が。魅力的な提言の片方で、直感でこの男とは馴れ合うことは不可能と感じた。

『でも母さんは・・・』
『廃人も同然な人間のことなど忘れろ。そういう人間は長くは生きん。どうせ息子と認識もされていないのだろう?』

――廃人

『・・・・・・・・・』

 それでも――壊れてしまっていても母さんは母さんだ・・・

 黙って俯いたローランドにアーノルドは畳み掛けた。

『ローランド、お前には新しくまともな母親もできる。良い子にしていれば可愛がってもらえるぞ。お前の幸せのためだ』
『僕の幸せ・・・?』
『そうだ。だから私の元へ来い』

 しかしローランドには自信に満ちた笑顔のアーノルドが酷く滑稽に見えた。その言葉も笑顔も偽りで、彼は偽善者だと、頭の中で別の自分が告げていた。

――違う。僕のじゃない。あんた自身のためだ。

 そう思った瞬間、再び心が冷めた。そうだ、ついさっき彼自身が告げたではないが。ちょうど猟犬が欲しかったが、純潔は手に入らなかったのでよく似た雑種で我慢しよう――そういったところなのだ。

 ローランドは密かに拳を握り締めた。

――ねえ、母さん・・・この人のどこがいいの?

 ローランドから母親を奪ったくせに、またしても自分の都合のために一度捨てたローランドを利用しようとしている。マリノアから聞いている。アーノルドはローランドができたから彼女を捨てたのだと。そして彼が今利用しようとしているローランドを産んだのはマリノアなのに、そちらはやはりいとも容易く切り捨てる気なのだ。
 母さんがいくら傾倒してもこの男は、母さんのことも僕のことも何とも思っていない。
 彼は貴族で、自分たちとは大きな隔たりがあるのだと感じた。今まで見てきた数多の貴族と同じ。人を人とも思わない――それが下級階級であるならば、自らより格下であるならば。金で全てを解決できると思っている。ローランドのことさえ利用する気しかない。
 この男はここに在る限りずっと母さんを苦しめる。

 小さな憤りと共に忘れかけていた火が再びローランドの中で燃えはじめた。
 誰が――誰が、言うなりになんかなるか!

 黙り込むローランドにアーノルドは彼の名を読んだ。

『ローランド?』
『・・・分かりました』
『本当か?それは良かった!早速妻に――』
『でもひとつだけお願いをしてもいいですか?』
『何だ?何でも言ってみろ』

 ローランドの返事に気を良くしたアーノルドは遮られたことも咎めず、寛大な父親役にはまったかのように、にこやかに応じた。
 それを心の中で疎ましく思いながらローランドは小さな復讐心とも言うべき感情を抱いていた。
 この仕掛けがどう動くかなど、曖昧にしか分からなかった。それでも少年にとってそれは良いことに思えた。
 ただ、これ以上苦しみたくない――苦しませたくないという切なる願い、解放を望む心があっただけなのだ。

『1度だけでいいです。母さんに、会ってください』

 途端、顔が強張ったアーノルドに、しかしローランドはにこやかに告げた。

『ただ顔を見せるだけでいいんです。父さんにできない訳がない――簡単なことでしょう?』

 暫くの思案の末、不承不承アーノルドは承諾した。それくらいならいいかと思ったのだろう。だから彼は気付かなかった。少年の翳りを帯びた微笑みに。


 ローランドはアーノルドと約束をして娼館に帰った。帰りが遅くなったことで酷く怒られたが、ローランドは気にしなかった。それから調理場へ向かい、あるものを見つけるとそれを布に包んだ。
 そして夜半に――母親の部屋に足を踏み入れた。本来の姿で。

『母さん・・・』
『誰・・・?アーノルド・・・?』

 少し眠たげな声に微かに苦笑するとローランドは寝台に近付いた。いつも感じる恐れをこの時は感じなかった。

『母さん、僕はローランドだよ。あなたの息子のローランド』
『ローランド・・・?』

 目を瞬いたマリノアの手をそっと握ってローランドは頷いた。

『僕は母さんとアーノルドの息子のローランド。分かる?』
『アーノルド・・・アーノルド?アーノルドがいるの・・・?どこ?』

 目を見開き興奮し始めたマリノアに少し焦って慌てて告げた。

『ううん、今は――今はいないよ。でもね、母さん・・・明日、アーノルドが母さんに会いに来るよ』
『アーノルド・・・アーノルドはどこなの・・・?あたしのアーノルドッ!』
『母さん、落ち着いて。寝て、覚めて朝日が昇ったら、明日になったら会えるんだよ』

 声を上げるマリノアを落ち着かせるようにローランドはゆっくりと何度も繰り返し言い聞かせた。やがて言葉を理解したマリノアは嬉しそうに上体を揺すり始めブツブツと何事か分からないことを呟き始めた。
 まるで小さな子どものような、そんな母親を苦しそうに見つめていた少年は、愛する男のことで頭が一杯で、恐らくもう彼の言葉など耳に入らないであろう母親に言った。

『ねえ、母さん・・・父さんに会ったら、僕のこと思い出してくれる?』

 答えが返らないことなど知っている。それでも、自分の世界にいる母親に構わず言葉を紡いだ。

『僕、母さんが幸せならそれでいいよ・・・ねえ、明日父さんに会ったら、母さんが望むようにするといいよ。このまま苦しいのは、嫌でしょう?』

 暫しブツブツ呟きながら体を揺らす母親を見つめていたが、やがてローランドはぐい、と腕で顔を拭うと懐の包みをサイドテーブルに置き、踵を返して部屋を後にした。



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