1-3-9 | 風の庵

1-3-9

<BACK   NEXT>


 ローランド・デンダールはペリラ王国首都アグネサール11番街にある、どこにでもありそうな古いアパートメントの屋根裏部屋に生まれた。


 彼の母マリノアは高級娼婦――11番街に堂々とその存在を主張する高級娼館の売れっ子だった。
 高級娼婦とは、普通の娼婦とは格が違う。場末の酒場で客を見つけるような者たちとは違う。
 美しさは勿論のこと一定の教養を兼ね備えた女たちであり、その生活は並の娼婦たちに比べれば遥かに優雅とも言えるかもしれない。場合によっては貴族たちの戯れに付き合い、同伴者として社交の場に顔を出すことをさえ許されるエリートなのだ。
 そんな女たちの1人であるマリノアが2番街の社交パーティに、ある紳士に連れ添って参加したある春の夜。
 彼女は1人の男と出会った。
 彼の名はアーノルド・ブランデンベルク、枯れ草色の髪に琥珀の瞳を持ち、男爵位を相続したばかりの麗しい男であった。
 今が花盛りの若いマリノアに一目惚れしたアーノルドはそれ以後彼女をよく訪うようになった。
 未だ独身であり裕福なアーノルドの熱烈な求愛にマリノアは心動かされ、やがて2人は相愛となった。
 マリノアはアーノルドの囁く愛に胸を熱くし喜びのうちに恋人の日毎の訪問を待った。彼は彼女に娼婦を辞めさせ、妻として迎え入れるとまで告げたのだ。彼の言葉を信じ、支配人に惜しまれつつも交渉の結果、マリノアはその年の夏には娼婦を辞める算段がついた。そしてそんなマリノアが自身の変化に気付いたのがちょうど夏を目前にしたある日。
 医師に診せたマリノアは歓喜した。彼女は身籠っていたのだ。
 アーノルドの子であることに疑いの余地はなかった。仕事柄その点の管理に注意を怠らなかったしアーノルドと想いを通わすようになってから支配人に頼み込んでそういう客を取らなかった。

――きっとあの人も喜んでくれる

 麗しい彼の子、美しい子に違いない――早くこの腕に抱いて、彼と幸せを分かち合いたい・・・

――アーノルドはどんな顔をするかしら

 きっと、あの素敵な笑顔で抱き締めてくれる―――そう、期待に胸踊らせ彼の訪問を待った。そして数日ぶりに訪れたアーノルドにマリノアは嬉々として慶事の報告をした。

――さあ、何とか言って!

 しかし、アーノルドがマリノアの望みを叶えることはなかった。

 彼は『冗談はよしてくれ』と軽く笑った。少し鼻白んだマリノアが事実であることを説明すると、次に彼は笑顔を凍らせた。そして青褪めると、堕ろせと要求した。
 しかしマリノアはきっぱりと拒否し、産むことを宣言した。するとアーノルドは顔を引き攣らせたまま首を振って、そしてあんなにも熱烈に彼女を求めたと同じ男とは思えないほど冷淡な眼差しで、残酷な宣告をした。

『私は来月、フールベル伯爵の令嬢と結婚する。君とは関係を続けてやってもいいとは思ったが、庶子なんて冗談じゃない』

――結婚・・・?だって、私が・・・

 衝撃のあまり口の利けないでいるマリノアにアーノルドは手切れ金、と小切手を切るとそれを彼女に放って去って行った。
 足元に舞い落ちた小切手を呆然と眺めながら彼女は悟った。――騙されていたと
 全ては貴族の戯れに過ぎなかった。恋愛ごっこにうまく乗せられただけ。
 考えれば分かる筈の事だったのだ。いくら愛そうと生粋の貴族と娼婦には大きな隔たりがあると。常識的に、娼婦を妻に据える男はいない。良くて愛人止まりだ。
 憎めれば良かったが、しかしマリノアは彼を本気で愛していた。いや愛より執着に近かったかもしれない。棄てられた事実があってなお、彼を求めていた。だからそんな現実など認めたくなかった。彼女の中に小さな亀裂が入ったのがこの頃。

 不憫に思った娼館の支配人が再び彼女を雇うことを申し出たが、どのみち妊娠中に娼婦など無理だ。マリノアは最後まで堕胎する気はなかった。堕胎は神殿が堅く禁ずる行為であったし、失敗すれば自身も傷付く。更に非合法のそれは多額の金がかかる。
 職も失ったマリノアは身重の身体を抱えて古いアパートメントの屋根裏部屋を借りた。アーノルドの残した小切手は、当面の暮らしは何とかなりそうな額だった。
 だが子が生まれた後も、というほどはない。マリノアは内職をして金を貯めた。雀の涙ほどであってもないよりはマシ、と。11番街の裏側は貧しい人間が多い。アパートメントの階下の住人の中には大きな腹を抱えた若い娘を憐れに思い、幾らかの助けを差し伸べる者もあった。貧しさの影に良くも悪くも人間というものがよく見える灰色の薄汚れた街にあって、かつて美しく咲いた花はひっそりと時を過ごした。

 そしてその年の冬、雪の散らつく寒い日の早朝、マリノアは1人の男児を産み落とした。
 薄く生え揃った髪は淡い灰色がかった茶、ぱっちりとした目は綺麗な琥珀色。
 その父にこれ以上ないほど瓜二つの男の子であった。
 それを認めた瞬間、喜びと共にひたすら半年以上押し隠してきた悲しみが突如押し寄せ、生まれたばかりの赤子を抱きながらマリノアは慟哭した。亀裂が少し広がったのがこの頃。
 ローランドと名付けたその子が乳離れすると同時に、マリノアは再び娼館へ戻った。生活費は尽きかけていたが、11番街では有名な娼婦であった彼女を雇い入れるところはなかった。支配人を始めかつての仲間は彼女を快く迎えた。
 幼子は娼館で育った。貴族たちの裏の顔や華やかな王都の片隅に蔓延る貧しさ、泥々しい人間ドラマや反面では人情を見ながら育った。そしてローランド少年が育つにつれて、マリノアは徐々に精神が蝕まれていった。
 何の因果か、いや当然といえば当然で、しかし偶然の確率にしては恐ろしいほどローランドは、マリノアで遊んだ挙げ句に彼女を捨てたアーノルド・ブランデンベルクに生き写しであった。幾年月が過ぎたが、未だ未練を捨てきれずにいたマリノアは幼い息子の中にかつての恋人を見出だすようになった。時には彼をその男の名で呼ぶことさえ。
 少しずつ心が病魔に冒されにつれ、昔の美しさは輝きを潜めた。客がどんどん減る一方のマリノアにやがて支配人たちも態度が厳しくなった。所詮稼げない女は価値がないのだ。
 虚ろな目で顔も知らない男の名を呼びながら手を伸ばしてくる母親に怯え、また仕事が減るゆえに追い出されることを恐れたローランドは、支配人に頼み込んで娼館の雑用をこなし母親と2人きりになることを避けた。
 マリノアの肌はすっかりやつれ、生気のない表情にあって碧の瞳のみが異様なほど鋭い光を放っていた。筋張った手を伸ばし『アーノルド・・・アーノルド・・・』と口元に薄い笑みを浮かべ、その瞳にはローランドが知らない感情を宿し彼を求めるのだ。あるいは、客の中にアーノルドに似た人間がいると形振り構わず駆けてきて喚いたり懇願したりするようになった。
 本能的に、母親の異常を感じ取っていた。それは小さな少年を警戒と恐れに陥らせた。マリノアの精神異常から来る不思議な行動には娼館の人々も頭を抱えていた。そして彼女は娼館の一番奥の部屋に閉じ込められた。

 彼らが抱いていた危惧が現実のものとなったのは、ローランドが10歳の秋。
 いつものように少年はお使いを頼まれて裏街を走っていた。その帰り道、彼は1人の男に呼び止められた。ローランドはその男に酷く驚いた。何故ならその男は驚くべきほど自分と似ていたからだ。

『君は、ローランドかね?』

 男はそう言った。思わず頷いたローランドに男は自らの名と少年の父親であることを告げ、そしてアーノルド・ブランデンベルク男爵は、実はローランドを引き取りたくて探していのだ、と告げた。あまりにも突然のことに驚いたのと、今まで10年も放っておいたくせに、という憤り、戸惑いが合間りローランドは返事を返さなかった。アーノルドはまた会う約束をすると去っていった。

――あれが母さんの心を占める男

 生まれて初めて会った父親にローランドは興奮していた。母の口からしか聞いたことのないアーノルドは確かに格好の良い男だった。良くも悪くも高揚したままローランドは娼館に帰った。その足でアーノルドの話をしようと母親の元へ向かった。
 しかし最近では息子を識別するほうが少なくなっていたマリノアは、アーノルドの名が出た途端に物凄い勢いでローランドを捕らえると、アーノルドの名を叫びながら少年を床へと押し倒した。
 少年の悲鳴を聞きつけて支配人や娼婦たちが駆け付けた時、マリノアは獣のように眼を光らせ、ローランドをまるで人質を取る犯人のように捕らえ『アーノルドは誰にも渡さないッ!!』と少年の首に腕を回し力を込めた。半狂乱のマリノアを数人がかりで押さえつけ、涙を浮かべて咳き込むローランドを保護すると、偶然近くにいた魔術師が呼ばれ、マリノアに眠りの魔法をかけて事態は収まった。
 しかし少年の方は、実の母親に殺されかけたことと積もり積もったものがショックとなってしばらく抑鬱状態になった。もう彼が母親に優しく抱き締めてもらえることはないだろう。母親はローランドをローランドとして見てはくれないのだから。
 そして母親をその状態に追いやったのが、あの男なのだ。ローランドの中に小さな種火が生じた。


 マリノアは狂っているが放置する訳にも行かず、彼女の世話はずっとローランドがしていた。このままでいるのは良くないと、大人たちの提案でローランドは生まれて初めて女装なるものをした。
 幾らかの抵抗はあるものの、女性に囲まれて育ったローランドに女性の振りをする事自体は難しいことではなかった。どうせ男の子の姿でそれと認識される希望はなく、女の子の姿の方が安全なのだ。初めてローランドは“ローラ”になった。
 魔術師の精神制御により幾ばかりか落ち着き――否、思考がほぼ止まっているマリノアは“ローラ”を見てもぼんやりとした目で見るだけだった。それでも“ローランド”でいるよりずっと良かった。名前を聞かれ、名乗ると可愛い子ね、と頭を撫でられたから。すごく嬉しかった。
 そして本当に時々、幾らか正気に還った時こう言う。

『あたしの子とそっくりね。とても可愛いくていい子なのよ。そういえばどこに行ったのかしら。ねえ、あなた知らない?』

――母さん、僕だよ

 そう言いたい気持ちを懸命に堪えてローラは知らない、と首を振った。残念そうな顔をしても、明日にはまた忘れてるだろうから。 母親を騙していることに後ろめたさを感じ、しかし変装を解けない悲しさに押され、ローランドは『アーノルド・・・アーノルド・・・』と呟きながら上体をゆらゆら揺らす母親を見つめていた。

 あの男がそんなに大切なの?――――僕よりも

 精神が壊れてしまうほど、自分よりも大切なのか。
 その思いは燻っていた火を煽り始めた。

 誕生日を目前にした秋も終わりのある日。
 いつものように食事を運んできたローランドは、母親のベッドの傍らに座る壮年の男に気がついた。男もローランドに気付いて優しく微笑んだ。

『ディードさん』

 始めにマリノアを大人しくさせたディードという名の魔術師は、元々ここの人間ではなく仕事で来ていただけらしいが、ちょくちょく様子を見に来てくれていた。穏やかで博識、渋味のある憧れの男性だった。しかも聞いた話、見かけの倍以上の年齢だと言う。それにもいたく感動した。

『ローラちゃん、いつも悪いわね』

 今日は大分落ち着いてる様子の母に、ローランドは微笑を返した。最近では『ローランド』がその口から発せられることはほとんどなくなった。

 母さんの中にはもう、僕はいないのかな――――

 唇を噛んで涙を堪えると、精一杯の笑顔で食事の盆を渡した。


 どうしたら母さんはもう一度、『ローランド』を見てくれるんだろう。

 本来の姿で歩くことがマリノアの錯乱を招くため、適わないことはよく知っていた。
 それでも、『ローランド』を見てほしかった。


<BACK   NEXT>