七日七夜【1】 | 風の庵

七日七夜【1】

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「長・・・妾が?」

 目を見開いた少女に青年は静かに頷いた。

 一族の長である父親が亡くなってから3日。まだ悲しみ冷めやらぬうちに長兄から呼び出しを受け、駆けつけたデアノラを待っていたのは、予想だにしなかった宣告だった。

「何故(なにゆえ)・・・?兄上方は――」
「初めから決まっていたことだ。次なる長はそなたであると、父上が言い遺された」
「し、しかしっ・・・」

 言い募るデアノラに、長兄アクラは眼差し静かに言葉を継いだ。

「確かに、そなたは長になるにはまだ若年。兄弟の中には反発するものもいる。しかし、決まりは決まりなのだ」
「兄上はそれで良いのか・・・?」

 青銀髪に青い瞳を持つ妖狼は、年の離れた妹を穏やかに見つめた。

「良い悪いの問題ではないのだ、妹よ。長の座に空白があっては群れの統率が乱れる。増して今は次なる狼王を生み出す斑娶り(まだらめとり)前段階に来ている。
 此度水と契るのは風、風の長は男だ。なれば水の新しき長は女でなければならない。我々兄弟の中に女はそなた1人だ」
「斑・・・娶り」

 顔を強張らせたデアノラを無感動に見つめたアクラは、冷淡に思える言葉を告げた。

「拒否権はない。地狼も火狼も既に斑子(まだらご)を生み出している。その片割れとなる斑子を水と風も生み出さねばならない。
 妖狼族の頂点たる狼王の祖となることは類稀なる特権だ。喜ばしいな、デアノラ?」

 デアノラは俯いた。

――拒否権はない

 強く噛み締めた唇からは血の味がした。

「・・・慎んで、お受け致す」
「明日、皆に伝える。明日その時よりそなたが水狼族の長だ」
「はい」
「風との婚礼は・・・先方の都合と合わせて決めよう。斑子は1人いれば良い。1人産めば、後は風と別れようとそなたの自由だ。水狼の中に気に入った夫を見出だせば良い・・・・・デアノラ」

 顔を上げた水狼族の美しい姫の硬い表情に、その兄は淡く笑んだ。

「良いか、そなたは一族の長となるのだぞ。一族の全ての魂がそなたの手に託される。責任と誇りを持ち、父上を超える良き指導者となるのだ。
 案ずるな、そなたは力においては我々の偉大なる父上に勝るとも劣らん。自信を持つが良い。我々兄弟はそなたの手足となり支えよう」
「・・・感謝する」


 自身の塒に戻ったデアノラは、ふらふらと泉に近付くとその縁に座り込んだ。サワサワと木々の葉が擦れあって音がする。木漏れ日が水底に落ちて、不思議な紋様を作り出していた。

――斑娶り

 それは妖狼族にとって大切な儀式。

 妖狼族は水・火・風・地の4族で成り立っている。その名がそれぞれの属性を表している。4族それぞれに群れを束ねる長がおり、そしてさらにその上に4族全てを統括する狼王がいる。
 狼王は妖狼族全ての王。1つの属性に偏ることがあってはならない。
 そのために行われるのが“斑娶り”。読んで字のごとく、異なる色を混ぜ合わせるために行われる婚姻。血の融合だ。
 4族それぞれの長たちが2組に分かれ契る。生まれた子どもは2つの属性を身に受け継ぐ。彼らは斑子と呼ばれ、斑子同士が掛け合わされることで最後に4族全ての血を引く狼王が誕生する。
 ただ、属性を越えた繁殖は非常に難しい。性質の異なる力と力が反発してしまうため、子どもが生まれにくいのだ。誕生までに数十年かかることもある。狼王の死に後継者の誕生が間に合わず、稀に狼王不在の期間があることさえある。
 属性の相性もある。火と水、地と風は一番難しい。しかも人間と異なり、繁殖期が決まっているだけに尚更。

 狼王はただ1人だけ。4属性全てを表す妖狼は1度にただ1人だけしか存在しない。
 たとえ複数誕生しても、兄弟間で婚姻は行えない。そんなことをすれば血が濃すぎて欠陥児が生まれる。しかし力の偏りがあってはならないから、4族どれかから伴侶を得ることはない。
 故に狼王自身が次期狼王を生み出すことは決してないのだ。成熟すればすぐ王となり、伴侶も子もなしに、妖狼族を守り、時が来たら死ぬだけ。
 狼王の寿命は平均的な妖狼のおよそ2倍。平均的で3~500年ほどだ。戦いや病で死ななければ、1000年近く生きる。ただ天寿を全うする狼王はあまりいない。力の強いものにほど挑みたがる人間や、勝手に危険視する人間たちに殺されたり、あるいは更に上位の妖魔と争って死ぬからだ。
 しかしそれでも斑娶りは滅多に行われる訳ではない。今の狼王は珍しく寿命を全うしそうなので、死期を見越して次代を据える準備の時期に入るのが今なのだ。

 妖狼の中では圧倒的力を持つ狼王はただ1つの存在、一匹狼。妖狼族全てが家族とも言えるし、現実に狼王は全ての妖狼の敬意を集めている。しかしそれでも1人なのだ。狼王の親たる斑子も、属する群れが定まらないためにまた、一匹狼。

 普通、つがいは惹かれ合った雌雄がなるものだが、斑子を生み出す斑娶りには愛情も何もない。それは儀式だからだ。

――拒否権はない

 決まった相手がいて、義務を果たせば良い。義務を果たせば大抵、つがいは別れて自分の群れに戻り好きにする。

――1人産めば、後は風と別れようとそなたの好きにすれば良い

 斑子は妖狼族全体の子どもに同じだから、生んだ親が世話せずとも皆がする。

 繰り返される斑娶り。
 初めてそのシステムを教えられた時から、デアノラは不思議だった。
 何故、狼王が必要なのか。それぞれの群れはどうせ普段から赤の他人も同然で、反発し合うことも珍しくない。仲はあまり良いとは言えない。ならばそれぞれがそれぞれで生きれば良いのに、何故ひとくくりにする必要があるのか。

 狼は冷酷だが、身内には愛情深い。だから家族とは愛で繋がるものなのだ。
 だが斑娶りにも、斑子にも、愛情がない。狼王に家族はいない。生みの親などあってなきに等しい存在。彼らは独りだ。群れで生きる生物は、独りでは生きられないはずなのに、孤立している。


「好きでもない男などと、寝ろというのか・・・」

 果ては子を作れと
――気色悪い

 胸の奥にむかつきが生じて、デアノラは水面を手で乱暴に掻いた。

 何故皆、耐えられるのだ・・・?

 これが古からの習慣でなかったとすれば、これ以上ない侮辱だったところだ。

――風狼族の長

 顔も知らない。名前も知らない――未来の夫。

 いや、事が済めば別れてもいいのだ。そんなもの夫ですらない。
 この特典がなかったら、とてもやってられない。火と地の長も斑子を作った後は赤の他人に同じ関係だと言う。

「どうせ、風のこと。頭の軽い変人に違いない」

 風狼族というのは、風属性の妖魔のご多分に漏れず自由奔放気ままな狼たちだ。金色(こんじき)の瞳と体毛が特徴で、空を駆ける姿が美しいと妖魔嫌いの人間にさえ讃えられる。
 水狼には真面目で大人しいものが多い。しかし怒った時の恐ろしさと冷酷さ、残忍さは妖狼族の中でずば抜けている。力の相性は悪くないが、風狼と水狼はほとんど馴れ合わない。

「何故妾がッ・・・」

 再びムカついて、水面を叩いた拍子にぱしゃん、と水が跳ねた。

 怒っても、仕方ないことだが、斑娶りはデアノラにとっては忌まわしい行為だった。

 まだ恋も知らないのに、好きでもない男と契らねばならないとは。今ほど女であることを後悔したことはない。

「・・・・・・・・」

 口を尖らせていたデアノラは深い泉を睨み付けていたが、ふと思い立つと静かに揺れる波面に足先をつけ、岸辺の岩を下りてそのまま水中に滑り込んだ。

 ひんやりと肌に沁みる水の心地よさが胸のモヤモヤを洗い落としてくれそうだ。
 たとえ人型であっても生粋の水狼である彼女に溺れることは愚か、息継ぎの心配もいらない。
 くるりくるりと光の差し込む水の中を自在に泳ぎ回り、時々目の前を過ぎ行く魚に似た姿や人魚のような姿の水の精霊と戯れた。


 差し込む金色の日差しが少し短くなった頃、デアノラはゆっくりと水面に浮上した。
 岸辺の岩に手をついて身を引き上げると、濡れた青銀の長い髪が艶やかな光を放った。
 肩に貼りつくそれを煩わしげに背中へ流すと、平らな岩の上に足を崩して座った。すぐにでも乾かせるが、水に濡れたままでいるのは嫌いではない。人間ではあるまいし風邪など引くわけがない。
 デアノラは濡れて色の濃くなった瓶覗色の服の裾から滴が滴るのをぼうっと見つめた。
 午後の日差しが気持ち良かった。頬をくすぐる柔らかい風が吹き抜けていって、心地よさにうっすらと微笑んで目を閉じた。長いまつ毛から滴が落ちて、滑らかな白い頬を伝って行った。耳には梢の囁く音がする。

 明日・・・明日、長となるまでは、妾はただの妾だ―――

 暖かい岩の上で横向きに寝そべる。

――生け贄

 誰だったろうか、そんなことを言っていたのは・・・
 ふと頭に浮かんだ言葉を手繰り寄せ、デアノラは眉を顰めた。

――今は亡き、母狼

 末娘デアノラを生んだ水狼は強く気高く美しい狼だった。長である父に並ぶ魔力を持っていた。しかし彼女もまた、望んで長の妻となった訳ではない。力が強くて美しかったから、選ばれたのだ。力の強い狼を生み出すために。
 そんな母が、母自身を指して言った言葉。その母は、子どもたちに食べさせる獲物を狩っていた時に、家畜を盗る害獣として魔術師たちに殺された。母も抵抗して人間たちを殺したが、結局数に敵わなかった。

 妾も、母上と似ておるな・・・

 自嘲が漏れた。力の強い狼を生み出すための腹でしかない。

 愛する母を殺した人間は憎たらしい。自分たちでさえ生きるために動物を喰らうくせに、同じことなのに家畜を狩る妖魔を殺そうとする。
 だが、時に思う。忌まわしい人間と自分たち妖狼は似たところがあると。人間たちは血のために愛のない、計略的婚姻をするという。それを下らないと昔は笑ったが、自分たちもそれと、同じだ。

――ほんの少しの辛抱だ

 その少しさえ嫌で堪らない自分は、やはりおかしいのかもしれない。特権と考えられない自分は。

 昔から変わり者だと言われていた。妖狼らしくないと。情緒がありすぎて、思考が人間のようだ、と。

――妖狼にとって、否、妖魔にとって“人間のよう”とは最大級の侮蔑だ。


「風狼の長が女でありさえすれば、妾がこんな思いをせずにすんだものをッ・・・」

 ぐっと拳を握った時、

「ほお、どんな思いをしたと言うのだ?」

 聞き覚えのない男の声が耳に飛び込んできて、デアノラはギョッとして飛び起きた。

「何者だ!」

 怒鳴りつけ瞬時に戦闘態勢に入ったデアノラが見た先に佇んでいたのは、1人の青年だった。

「貴様・・・・」
「おやおや、美人が怒ると恐いな」

 少しもそう思っていなさそうな口調で鷹揚に男は笑った。
 すらりとした長身に均整の取れた体格、肩までの真っ直ぐな髪は零れるような黄金色、そして太陽を映したような金の輝く瞳――

「怒る顔も美しいが、先のそなたの方が更に扇情的で魅力的だった」
「――っ!貴様、風狼かっ!」

――近付いたのに気付かなかった

 カッと頬を染めた―怒りのためであって羞恥などではない―デアノラの言葉に男は笑みを深めた。

「そう。私は風狼、ジルベルトだ」

 泰然自若とはこの男のためにある言葉ではないかと思われた。デアノラの刺すような敵意も悠然と構え、意に介さない様子の男は立っていた岩の上から下りた。

「それ以上近寄るな!!風狼風情が何用だ!ここは妾の縄張りだ!!」

 纏う気に、自分と同程度の力があると直感で感じた。

「手厳しいな。だが断りなしに入ったのは悪かった。声をかけようと思ったのだが、そなたのあまりの美しさにそれも忘れた」
「―――、なっ・・・」

 浩然とした光を湛えた瞳が細められる。その中にある暖かい感情に戸惑った。何故か顔が、熱い。

 いっそ敵意やあからさまな下心があればすぐに撃退できたものを――


 ジルベルトはまたふ、と穏やかに笑った。





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