1-3-4 | 風の庵

1-3-4

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「おっはよう!」

 朝4時。いつものごとく朝の仕事を開始すべく下りてきたら、素敵な笑顔が待っていた。

 玄関ホールの柱時計を見やる。4時。間違いない。

「・・・・・・・・」

 再びローラを見た。
 ニコニコニコニコ。

「・・・・おはようございます」
「あたしも手伝うわよ~♪」

 フィンはチューリップのアップリケがついたラブリーなエプロンを身に着け、腕まくりしながら申し出たローラを困惑気味に見つめた(しかし無表情)。フィンでさえ4時起きは眠いのに、日も未だ上らない朝っぱらからこのテンションの高さは何だろうか。

「何したらいいかしら?」

 何ができるかによる。というか、身なりの良い女性に家事労働ができるとは普通誰も思わない。
 フィンの心の声を読んだのか、ニッコリとローラは言った。

「あたしこれでもイロイロできるのよ~。畑仕事したこともあるし、お料理もお掃除もすきだもの~」
「・・・・・」

 フィンは疑いの眼差しを向けた。
 それはそうだろう。綺麗に整えられ、色鮮やかなコーティングがなされたネイルと細く長い指を見れば、誰でもそう思う。人は大抵手を見ればどんな階級に属するか、分かる。

「あっ、疑ってるわねえ?ヒドイわ、あたし傷つくわよ?」
「・・・失礼しました。では・・・」

 迷いに迷った末に、朝食の用意を頼んだ。安請け合いしたローラに不安を拭いきれなかったが、何か役目を与えねばずっとつき纏われそうな気がした。

 家畜の世話と搾乳、卵の回収を終えて裏口から台所へ戻ると、調理台に向かっていたローラがニッコリ笑って振り返った。釜戸の中の鍋には野菜スープ、見たところ問題はなさそうだった。

「見て見て」

 何事かと調理台に近付けば、ローラはパンを作っていた。既にねかせた生地をちぎって丸めて色々な形を作っている。犬(と思われる)や鳥、楕円やハート形、ウサギらしきものもある。

「かわいいでしょ~?ちょっとでも食事がたのしくなればと思って」
「・・・そうですね」

 朝から大層な事で。

「ここ、焼き窯もあるじゃない。せっかくだからピザとかパイとかも焼きたいわね」
「そうですね」

 まあ、見る限り手際は(意外にも)良いようだし結果的に食べられればそれでいいから。

「やだあ、フィンったらノリわるーい」

 あなたのテンションが高過ぎるんですが。

 と言うか見た目と中身のギャップがありすぎだ。
 美人でオトナっぽい声なのに、この、超フレンドリーにして頭に花が咲いた乙女的ノリはいかがなものか。
 調理台の上に卵の籠を置きながら答えた。

「・・・いつもと変わりありませんが」

 一瞬口を閉じて真顔でフィンを見つめたローラはしかし、すぐにニッと笑った。

「だめだめッ、オンナは愛嬌と度胸で勝負よ。その若さでそのおちつきってどうなのよ?甲斐性のカケラもない年寄と同居だからってあなたまで年寄くさくならなくていいわよ」

(愛嬌なくて悪かったな)

「ほぉら、笑って笑って!笑顔はいちばんの美人のモトよ」
「・・・・・・・・」

 笑う?何のために?

 フィンはスイ、と目を逸らして調理台から離れ、ランタンを取ると壁際の戸を開けて地下の食料貯蔵庫への階段を下りた。
 その後ろ姿を、ローラが目を細めて見つめていたが無論気付くわけがなかった。

 10メートル四方の暗い部屋はひんやりと涼しい。ランタンの明かりで梁から吊るされた燻製肉のひとつを取り、チーズとジャガイモを抱えて戻る。ローラは窯にパンを入れている。調理台に燻製を置き、ジャガイモをマッシュポテトにするべく取りかかる。洗って皮を剥いていたらローラが隣にやってきて手伝い始めた。

 しばらく沈黙が続いた後、ふいにローラが口を開いた。

「・・・昨日レイからきいたわ、フィンのこと」

 一瞬手が止まったが、すぐにナイフを動かし始めた。

「・・・・・そうですか」

――それからふと、思う。

 師匠は――私のことをどれほど知ってるんだろう。

 あの日のことについて、あの日フィン自身が経験したことについてレイに話したことは、ない。
 惨劇は国で知る者のないほど有名な話だったし、あの日のことを他人に語ることは――自らの罪を消えない、現実として認めることになる。
 それは4年半前から絶えずフィンにつき纏うものであった。しかしそれでも――それでも、時々忘れていることができた。一生懸命働いたり師匠をいびっている時は―――
――いやむしろ、忘れたかった・・・

 逃避に走る今でさえ、得体の知れない恐れに囚われているというのに、決して逃れられないと、その罪状が目前に突きつけられたら、認めてしまったら―――

 背筋を冷たいものが伝った。

――今度こそ、壊れるかもしれない・・・

 それは4年半前の、あの世界が灰色だったとき、冷たさと空虚さに満ちた時に逆戻りすることを意味する。目に映る世界に何の意味も見いだせなかった。生きる目的はなく、ただ漠然と生かされていたあのとき。氷のように凍てついて、引き裂かれたぼろ布のようだったとき・・・心はぽっかり開いた大穴のようだった。中身はなく、ただ決して光の届かない暗闇と肌を刺す冷たい風が吹き抜けるだけ・・・・・いや、もしあの日を正面から見つめ直したりしたら、それより悪くなるだろう。

 身体が拒否する。あの記憶さえ曖昧な時期を、それでも身体は覚えている。途方もない虚無の世界を。それに戻ることを怖れ、拒む。

 肌が粟立つような想像に目眩がしそうになった時、存外にも窮地からフィンを救ったのは賑やかな客人だった。ただし今は殊勝とも取れる大人しい態度だが。実にさりげなく告げられた言葉に、思考は現実に引き戻された。

「フィンがここに来てくれてよかったわ」

「・・・・・え?」

 ローラは少しだけ顔を向けてきた。綺麗にカールした長いまつ毛に縁取られた琥珀の目をこちらに向け、紅のさされた唇は緩やかに弧を描いている。斜め45度、ではないが、僅かに斜めを向くと通った鼻筋や顔の輪郭・・・全てのラインが一層綺麗に見える。

「あなたがここに来たのはレイにとってよかったのよ――」

――あいつはとてもさびしい人間だから

 そう言った気がして、咄嗟に仰ぎ見た隣の人は予想外に真摯な眼差しだった。

「・・・・・・・・」

「ここ来る途中にきいたけど、最近はレイ評判いいみたいね?」

(最近は・・・・・?)

「あなたがいるからね」
「違うかと思われますが」
「いいえぇ、だってカワセミ村のひとがそう言っていたもの~。お弟子さんが来てからレイが生き生きしてるって」

(あれで・・・・・?)

 無表情に首を傾げているフィンに微笑むと、ローラは少し遠くを見るような目をした。

「少なくともあたしがここにいたころとは大違いよ」

(・・・・・・どんだけ)

 ローラがここにいたころ・・・・・・師匠はどんな風だったのだろう。

 ふと、昨日の師匠のローラに対する態度を思い出して知らない方がいいような気がした―――・・・・・・ん?
 ここにいたって――

「ローラさんはここに住んでいたんですか・・・?」

 答えはあっさり返ってきた。

「そうよ。もう10年以上昔、あたしがまだイタイケなオトメだったころよ」

 それはつまり、やっぱり2人は――――

 ローラはフィンを見てぷっと噴き出した。

「やぁだ、そんな顔してかわいいッ♪
 あたしはね、こどものときにここに引き取られたのよ。ディードが生きてたころね。それからおとなになるまでいたわ」
「ディード?」
「あら、知らなかった?レイの師匠であたしの養い親よ。14年前の冬に風邪をこじらせて亡くなったの。豪快豪胆で懐の大きいじいさんだったわ。あたしはディードが死んでからここを出た」

 レイの師匠・・・師匠なんていたんだ・・・いや当然か。魔術師になるには師が必要だ。14年前・・・・・・レイはどんなだったんだろう。そして、

「養い親・・・」

 フィンの呟きにローラは微笑んだ。

「あたし、孤児なのよ。あたしの父親は10歳のときに死んだ・・・・・いえ、殺されたの。あたしの“母親”にね。すぐに母親とも引き離されたからディードがあたしを引き取った」
「――っ」

 息を飲んだフィンにローラは初めてその明るい瞳を曇らせた。その形の良い唇が小さく動く。

――女なんか嫌い

「・・・・・・・・」

 空耳かもしれない呟きに何故か違和感を覚えた。

「ねえ、フィン。体の傷とちがって心の傷ってなかなか癒えないわ。いつまでも痛みが消えない――でもね、和らげることはできるのよ」

 
ローラは眼差し深く、じっとフィンを見ながら言う。琥珀の瞳は綺麗で、そして奥底に憂いを秘めていた。そこにある感情に、自らと似通ったものを見出だして、フィンは半ば陶然と魅入った。

――この人は、私と同じ

 何故か無意識にそう感じた。

「あたしはフィンの気持ちを理解できるなんて大言吐かないわ。でも、幾らか共感はできると思う。
 何がいけないってね、孤独になることよ。孤独に自分を追い込むのは他でもない自分自身なのよ。まわりの人間とか、環境より重要なのは心のありかた。
 あなた見てると、むかしのあたしそっくりだと思っちゃうわ・・・
 だから、独りで抱えない方がいいわよ~。あのね、あたしも最初は勇気がいったけれど思い切って吐き出すと心が軽くなるのよ。あたしで良ければ聞いてあげるわ。レイにも内緒にするし」

 突然の申し出に戸惑いつつ、フィンはローラの意図を量りかねていた。フィンに限らず、出会ったばかり、昨日の今日で「何でも悩み聞いてあげるからゲロっちゃいな♪」などと言われたら普通、誰でも困惑するだろう。

「私・・・・・・――どうして・・・?」
「言ったでしょ。むかしのあたしと重なるの。たまたまここに来てフィンと出会ったのは本当に偶然だけど、運命かしらね?」

 にこやかに告げたローラから剥き終えたイモを受け取ったフィンはそれを等分に輪切りにした。それから鍋に放る。

 耳を貸す必要はないと、所詮他人の言葉など信頼に値するものではないと、会ったばかりの人間の好意など間に受けたら最後に傷付くのは自分だと――
 そう心が告げているのに、それを打ち消す勢いでローラの言葉のひとつひとつが頭の中で反響していた。

「ま、考えておいて。それより今日の午後は暇かしら?」
「・・・暇ではありませんが、何か御用なら空けます」
「そお?じゃ、空けておいてちょうだいな♪」
「・・・分かりました」

 何故か薄ら寒くなったが、何故だろう。



 香ばしいパンの匂いに空きっ腹が刺激されていた頃、ようやく朝食の用意が整って、毎朝恒例の水浸しでメイリオに起こされたレイがやって来て一同は食卓についた。

 昨日の険悪さが嘘のように穏やかなレイは、多分猫を被ってるんだろう。メイリオがローラを妙なものを見る目で見ていたが、特に攻撃的ではないので気にしないことにした。
 ローラの焼いたパンもスープも美味しかった。

 ローラに絡まれて引き攣った笑いを浮かべている師を横目に、フィンはずっとローラの言葉を考えていた。

『あたしで良ければ聞いてあげる』

 迷いがあった。恐れがあった。
 混迷する心の望みが分からなくて、どうすれば良いか決められなかった。

 この荷を誰かに託すことなどできるのだろうか。

『心が軽くなるわよ』

 それは蜜のように甘い響きだった。

――本当に?

 でも蜜を得るには、蜜蜂の巣に近付かなければならない。それには少しの危険が伴う。少しの恐れが伴う。

 信じるのは怖い―――――でも、信じてみたい






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