三島由紀夫と大江健三郎 | 気になる映画とドラマノート

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 「映画批評家のKK女史のごときは、(   )の死を聞いて、さめざめと泣き、ごはんもノドを通らず、(一周忌には、(   )と頭文字を焼きこんだまんじゅうを配り・・・」

 このカッコ(  )入るのは、韓流スターの名前ではない。

 しかし、韓流スターの名前が入ると思った人もいるのではなかろうか。

 この文章、昭和33年1958年に三島由紀夫が書いたのであり、カッコに入るのは、アメリカの男優、ジェームス・ディーンである。

 この時、十分、アメリカの映画業界も、日本の配給業界、雑誌も、商魂たくましく、宣伝して、日本女性をこの文章にあるとおり、熱狂させたが、「ゴリ押し」なんていわなかったと思う。
 また、いまや、「スクリーン」とか「ロードショー」という欧米の男優、女優の写真で埋め尽くされた雑誌は、廃刊されてしまった。韓流ドラマ、映画が廃れたのも、なんのことはない、キョンシー、ブーム、香港カラテ映画、マカロニウェスタンが終わった、洋画ブームが終わったと同じで、日韓関係とは関係があるまい。

 「茶化したって、ダメだよー。」
 マルクスは国家廃絶を口に出したので、後年の知識人は、まるで、現代人が「国なきがごとし」の態度でいることが知識人の証であるかのように考えるようになった。

 大江健三郎、朝日新聞の論調などが、その典型だろう。「世界市民」という態度がいいというわけだ。

 しかし、そんな考えは、日本特有の考えであるのは、例えば、世界の反米運動は、ナショナリズムや宗教を基盤にした運動がほとんどで、「世界市民」を標榜する反米などは、日本にしかない。

 なぜそういうことになるかというと、大江健三郎は、結局、サルトルの亜流だからである。サルトルは、世界が社会主義国になっていくことに希望を見出した小説家・哲学者だった。サルトルの「自由への道」の「自由」とは、「社会主義への道」と同義だったが、途中で、現実の社会主義が、自由への道とは違うようだとだれの目にも明らかになってくる。

 「茶化したって、ダメだよー。」というのは、三島由紀夫は、晩年とも言えない年齢で切腹したが、切腹するほどに、日本の政治状況を憂えたのなら、明らかに、三島の若き日の言論は、「茶化し」の文章が多すぎた。

 大江健三郎が青年期から、老年に至るまで、大まじめに広島の原爆や沖縄戦問題、部落差別問題、天皇の戦争責任問題を日本政府、日本国民の民族悪の観点から告発し続けたことは、まさに、三島の守りたかった日本の国柄を崩す行為だという意味では、両思想の永い戦いであるとも言える。すると、結局のところ、三島がどういう立場かということを理解したとはいえ、三島のおかげをこうむって、大江や朝日新聞の妄言を打破したかといえば、そんなことはないのである。

 だから、「茶化したって、ダメだよー。」なのだ。

 日本という国は、幕末、明治維新のころから、一貫して、「国論統一しない」国だった。
 別な言い方をすれば、一貫して、「多様な意見がぶつかりあいつつ、進行した国柄」であり、「日本のリーダーが統一した意思のもとに国民を領導した時代というは、ほとんど無きに等しいというのが、事実である。

 幕末期、同じ人物が、攘夷から開国に変わり、開国派の幕府を攘夷派が攻撃して、結局のところ、攘夷派が維新後は、開国積極派になったことは、おもしろい。

 つまり、ここにも、日本が決して、一貫した国家意思を持って進行したのではないことがわかる。薩摩藩も、斉彬は、公武合体派であり、斉彬の薫陶を受けた西郷と大久保は倒幕派になる。また、島津久光は、廃藩置県に抵抗している。そして、西郷は、意見対立して、大久保に殺されている。

 佐賀の乱、萩の乱があり、大久保利通も殺されているのだから、日本という国は、「崩壊しなかった」だけのことで、「見解対立のるつぼ」の国柄なのである。

 明治天皇は日清戦争に反対したのが史実であり、伊藤博文もまた日露戦争に反対した。

 まあ、見事に一貫して、日本という国は、その時々に、指導層は意見の一致をみないままに、(当然だが、)「誰かが、何かの選択をしてきた」のであって、「日本」の統一意思とは、言えない行動だった。郵政民営化を見よ。日米安保を見よ。原発問題を見よ。

 1.1922年から24年にかけて、日本社会において軍人の地位はさほど高くはなかった。
 山梨軍縮、宇垣軍縮と続いた軍縮は、軍人を3万人以上、解雇、失業に追い込み、国民はバスの中で、軍人の靴の拍車の立てる音にうるさいなあ、かちゃかちゃ音を立てるな、という光景があるほどだった。

 2.1928年、山東出兵で軍事衝突が起きると、政府は出兵はさせたが、誰が軍事衝突していいといったか、というわけで、軍人を処分したので、陸軍の将校たちは、憤激した。憤激したのは、立場が悪かったからで、軍人天下なら、憤激する必要もない。

 3.1930年になると、ロンドン国際軍縮会議があるが、政府は海軍の意見を取り入れなかったので、これも、海軍の憤激のもとになる。軍人天下ではそうなるわけがない。

 4.この後、浜口雄幸首相は、右翼青年に狙撃されるが、これも、右翼の思想が、政府に取り入れられなかった現実の証である。
 
 5.野党政友会の鳩山は、政府に対して、「統帥権干犯問題」を出して、政府を攻撃する。これは、「政党」相互が対立して、一部の政党が軍人の立場を擁護していたことを意味するのであって、「政党」対「軍人」の構図ではない。

 6.満州事変は満州事変で、「現地参謀」が「本国参謀本部」の命令を無視して勝手に行動したという事であり、「軍部」対「政府」の真っ二つの対立ではなく、まず、陸軍参謀本部と関東軍参謀の意見対立があって、これが上部組織の命令を聞かないというほど、深刻な対立だったのである。

 7.日本政府内の朝鮮軍が動く時、本来日本の慣行として、「閣議決定」が必要だったが、朝鮮軍は「閣議決定」なしに動いているのも、史実である。

 これでは、「軍国主義」もなにも、「統一された国家意思の元に動いてはいないのである。しかも、陸軍省の決定でもなく、参謀本部の決定でさえないのだから、すごい。

 事実この時、陸軍省軍務局軍事課長は、連帯捺印を拒否している。
 これでどこが、「軍国」「主義」なのか。

 この軍務局長も、その後殺されるので、軍隊内が意見不統一だったのは、間違いない。
 さらに、軍人出身の宇垣一成は、陸軍参謀本部の協力が得られず、組閣を断念。
 ※アメリカのアイゼンハワーも陸軍元帥だったので、軍人がトップになっても、軍国主義の証明にはならない。

 8.馬鹿げた話なのは、「日中戦争を決断した」のは、近衛文麿なので、ぜひとも、責任をとってもらいたいところだろうが、事実は、近衛文麿は、作戦計画、軍事情報を軍部と共有できなかった、のである。これでは、政府が「他国を侵略したくても、」「軍事情報もなく、指揮権もおぼつかなく」ては、侵略もできまい。

 9.丸山真男は日本はファシズム国家だったと言ったが、こんな国論不統一なファシズム国家などありえない。

 一般に戦後の歴史家は、こうした日本の動きを「軍部の暴走」というが、「軍部」なるものが、一丸となって、政府、議会政党と対立したわけではない。

10.では、政府と議会はどうだったか。近衛文麿は軍人でも軍部でもなく、軍部から情報公開を受けて、ツーカーだったわけでもない。その近衛は、「国家総動員法案」を「議会」に対して提出して、議会に反対されている。

 何故かと言うと、「政府の権限拡大」を議会の成員が嫌ったからで、これは、「議会の構成員が、諮問機関の過半数に入ることで、修正可決された。

 えっ?ということだ。これでは、「軍部暴走」とは言えないではないか。
 軍部とは、別に、近衛文麿と議会が妥協して、「国家総動員法案」を進めているのだ。どこが、軍部暴走、軍主導なのか。つまり、後の東條英機登場の御膳立ては、政府と議会が行っているのであって、軍部暴走とも言いがたいのである。

 政府が議会人にモノを言わせなかったわけでもない。
 11.海軍出身の米内光政内閣は、陸軍の意向で、組閣がうまく行かずに瓦解しているのだから、陸軍と海軍も、意見不一致だ。

 12.近衛文麿は、日米開戦阻止に全力を挙げたと戦後史家は言うのだが、「国家総動員法案」を提出しいたのが、近衛文麿なのだから、自分で火をつけて、必死に消火作業したようなものである。

 三島由紀夫は、こうした日本の真実を、大江のようなプロパガンダ作家に言わせて置かないで、言うだけ言ってから死ぬべきではなかったか。

13.すべて、日本は日本だけを見ていては、物事の本質はつかめない。この時、いぎりスはどうだったか、といえば、「挙国一致内閣」なのである。「挙国一致」とは、悪く取れば、「全体主義」だ。

 おもしろいのは、ドイツと日本の明らかな相違だ。
 ヒトラーは、紛れも無い「政党人」出身、いわば文官総統であるが、彼は、「オーストリア、およびチェコスロバキアを打倒する方針を国防大臣、と陸軍総司令官に説明して、これを反対された時、即座に二人を更迭している。日本の首相や天皇が、ズバッと陸軍大臣、海軍大臣を更迭したことがあるかといえば、ただの一度もない。ドイツの場合は、警察から、軍部まで、一丸となった「ヒトラーへのイエスマン」体制が確立されたのである

英国はこの時点で、世界中に植民地を持つ大帝国であり、フランスもインドシナ、アフリカに植民地を持っていた。そして、どちらも、国防大学を持っていたが、日本は、国防大学などは、昭和16年の時点で、ようやく第一期生が35名。しかも、教育期間はたった1年という貧弱ぶりである。こんな「軍国」「主義」国家がありますか。なお、国防大学はついに作られず、実質的に類似の機能として、「国家総力戦研究所」が作られたが、この「国家総力戦」も、何も日本が発明した概念ではなく、第一次世界大戦のヨーロッパ各国の発案になり、英国の国防大学は、まさに「国家総力戦研究」が教育内容だった。

 これでは、連合軍のほうが、よほど軍国主義だろう。

現代の日本のテレビに出演するコメンテーターは、「話し合い」「話し合い」と強調することが多い。だが、日本は、なにも、「話し合い」が欠除していたから、戦争したわけではない。「話し合い」云々とは、まるで関係ない。いまでは、アメリカは、日本の憲法を変えようが変えまいが、アメリカの意のまま、という状態での停戦になるまでは、戦争を止めまい、と決意していたことは、定説であり、ソ連は、戦争後も、60万人の兵士を帰国させず、シベリアに抑留し、フィリピンは戦争犯罪人として、拘留した兵士を宙ぶらりんに、帰国させなかった。

 日本は、それこそ、根をあげて、「話し合い」で、戦争集結しようと、ソ連仲介案を必死に模索したが、日本壊滅を狙うソ連は歯牙にもかけなかった。

 「話し合い」「話し合い」などという人間は、ほとんど痴呆である。

 また、現在、テロリストに民間ジャーナリストが捕まり、身代金が要求されると、「話し合いに応じない」のが、世界の常識である。「話し合い」を方針にしたとたん、治者は、もっと難しい局面に追い込まれることはまちがいない。

日本が、いかに馬鹿馬鹿しいほど、国会意思不統一だったか、もうひとつの好例がある。
 石原莞爾は、参謀本部の反対を押し切って、満州事変を断行し、次に石原莞爾が、中国との戦争に反対するのに、武藤章は、日中戦争を拡大させる。武藤章は、日米戦争に反対して、作戦部長田中新一と対立するのである。なにこれ?嘘みたいな話ではないか。

 戦前日本を批判するなら、悪の帝国というよりも、こういうへんちくりんな実態を指摘するべきではないか。