筑豊の近代化遺産 忠隈炭鉱のボタ山(筑豊富士) その2 (36)
それぞれ物には歴史があるように 忠隈炭鉱のボタ山にも歴史があります。 忠隈炭鉱は、明治27年(1894)4月8日に麻生太吉氏より10万8000円のその当時の巨額を投じて住友が買収 したものでその経過を記します。
麻生は、明治24年春から水害で忠隈坑内の排水 ができず 1年余の月日と費用を投じて忠隈炭鉱の採掘を始めますが大断層にぶち当たり出炭できなくなります。 資金もつき 忠隈を放棄の苦境 に入ります。
その時丁度、石炭産業の未来を考えた住友 は、炭量も多く 炭質も良く 59万余坪の大鉱区と周辺の未着手鉱区もあり 増区も可能と判断します。 さらに 明治26年(1893)に飯塚まで鉄道が延長開通 で交通が良好な事 さらに麻生家が信頼できる土地との名家を含め 住友の決断がおこなわれました。 一方、麻生太吉氏も買い手が 住友と聞いて弟、太七の手を握り自分の運の強さをかみしめたと 「麻生100年史」 に記してあります。 買収後、住友はこの山を 正式には 「忠隈穂波鉱山」となずけますが 通称は「住友忠隈炭坑」 とさらに略して 「住友忠隈」・「忠隈」ともよばれました。
明治42年(1909)出炭量20万t に 翌々年30万t で筑豊10指 に入り、明治末期より
大正にかけ住友忠隈は目覚ましい発展をします。 日露戦争(1904)から近代化と技術・経営改善が なされ 本格的な炭坑として苦闘を重ねながらも 太平洋戦争末期昭和19年まで実に34年間 1年平均30万t台を 保持する優良炭坑となり 昭和4年(1929)には、49万9000t の出炭大記録 を残します。
忠隈炭鉱運動会(昭和33年) ボタ山と雪(昭和33年)
忠隈炭鉱を堀池より(昭和33年) 忠隈の二本煙突とボタ山(昭和35年)
トロッコエンドレス滑車 D61型3重連機関車(昭和46年)
ボタ石の碑(昭和55年) 遠賀川とボタ山(昭和60年)
さようなら上山田線(昭和60年) 忠隈ボタ捨て運搬トンネル(昭和55年)
忠隈炭坑のボタ山護壁 ボタ山(昭和40年)
使用写真は、夢路波会(むじな会) 代表 藤木徹雄氏 の写真を使用させていただきました。
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