筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

   筑豊の近代化遺産 忠隈炭鉱のボタ山(筑豊富士)  その3  (37)


 嘉穂盆地の中央で筑豊炭田でも 最も美しいといわれた忠隈ボタ山を残して 忠隈は終山 しました。 閉山式は昭和36年(1961)10月5日午前11時から体育館でおこなわれ67年間の総出炭量1807万3000t 住友は常に石炭採掘業のリーダーシップを取り続けた山でした。 九州地区では、どの山より早く稼行しましたが 三菱飯塚・ 日鉄二瀬・ 久恒小正炭鉱などが次々に閉山し 忠隈もこれらの炭鉱と前後し閉山となりました。 


今は、忠隈山の神公園(旧迎賓館跡) の広い公園の北東隅の 旧体育館(現ほなみ幼稚園)の屋根が見える高台に 「忠隈炭鉱之跡と書かれた記念碑が静かに建っています。 ここから眺める筑豊に 唯一の残された 忠隈ボタ山は、ここを故郷とした多くの人達にとっては 限りない郷愁と 筑豊炭田が栄えた時代への証となっています。


この忠隈ボタ山は、観光名所になどの話もありました。 昭和53年(1978)8月には「ボタ山祭り」 として 山の斜面に3m間隔でトーチを立て 三角形の三つのボタ山を夜空に浮かび上がらせ数百発の花火を打ち上げ 遠賀川の中の島河原付近に集まった 人達に、筑豊富士の華やかな 炭坑最盛期の面影 を見た時代もありました。


筑豊には、最盛期には500のボタ山があったといわれています。 しかし 残されたボタ山は 感傷の対象だけではなく鉱害・災害の問題 も発生します。 今では全山木々でおおわれ 昔のボタ山を知る者にとってはだいぶ変わった山になりました。 昔を知らない人達にとっては風変わりな山となっています。 しかし 誰にでも言えるのは やはり 間違いなく見慣れた山であり 私達筑豊に住むもの 筑豊を知る人にとっては やはり 大事な故郷の山として いつまでも語り継がれる ボタ山 であると思います。


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          忠隈炭坑の碑                      忠隈炭坑の碑文

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        忠隈炭鉱碑と旧体育館               忠隈山の神公園内に建つ

   
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        ほなみ幼稚園(旧体育館)               忠隈山の神公園名板

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       公園より望む現在のボタ山             別方向よりの現在のボタ山    

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       旧炭鉱住宅よりのボタ山               炭坑住宅の現在1
  
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        炭坑住宅の現在2                  炭坑住宅の現在3
  


                     位 置 情 報
忠隈炭鉱の碑  
北緯33度37分16秒  東経130度41分27秒   標高  47m

ほなみ幼稚園   北緯33度37分18秒  東経130度41分29秒  標高 36m
(旧体育館)



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