筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

     筑豊の近代化遺産 忠隈炭鉱のボタ山(筑豊富士) その1 (35)


旧国道201号八木山峠の 展望台より筑豊盆地を見下ろすと 飯塚市街より少し南方に丁度筑豊の真ん中のへそのような3つの山 が見えます。 この山が 住友忠隈炭鉱のボタ山(以前から美しい形で 筑豊富士 とも呼ばれています)です。


ボタ山は、筑豊特有の建造物で、掘り出された石炭と一緒に 商品にならない悪い石炭や燃えない岩石 また 坑道掘削の際に出た石炭を含まない岩石が 掘り出されたものを ボタ(硬) という文字を当てますが 語源は不(九州地区での呼称)です。  このボタが高く積んだものを ボタ山 と称しています。


採掘時の石炭とボタの割合は、 炭層の条件 や 石炭の景気によってまちまちですが 当時の筑豊では、一般的には石炭1トン掘るのに 1トンのボタが出 といわれています。 数多かつた巨大なボタ山は、それとほぼ同量の石炭を 地下から掘り出したことを物語っています。(最も、ピラミッド型のボタ山が出現するのは昭和12年(1937)頃からで それまでは ボタで丘陵の谷間などの埋め立てに使われました。)


朝鮮戦争(1950)などの軍事景気の時代には、 石炭ブームで ボタ山のボタを選別することにより 水洗炭として売れ 大きなボタ山の周辺では そんな業者が乱立した時代もありました。 忠隈炭鉱のボタ山は、三つのボタ山で形成され 中央の一番高い山が 標高141.3mその 北西に138.5m 北東に113.8mの山が連なっています。(標高は 昭和47年測量 総量600万㎥ と推定されます。)


昔は、南に三菱鉱業 飯塚炭鉱の100m余りの3つのボタ山がありましたが、今はほとんど崩されました。 稼行のころはボタが 上るトロッコが頂上で落とすのが見れ 日に日に積み上げられ 頂上も鋭く黒々とした 繁栄の時代 もありました。


時には、雨の日の後に 水分と混入石炭が自然発火し 煙を出したり 下の水たまり場では温泉になる個所もありました。 炭坑閉山の後は、 温泉場は 子供達の楽しい遊びの場に 筑豊の貧困の時代には ボタ山での石炭ひろいの場 にもなることもありました。


忠隈ボタ山については、数(忠隈炭鉱の歴史とボタ山の記)掲載をしたいと思います。

それでは 筑豊の 忠隈ボタ山の写真での歴史を ご覧ください



筑豊風土坊のブログ-01    筑豊風土坊のブログ-02
    忠隈炭鉱とボタ山(昭和26年)            現在のボタ山付近の航空写真

筑豊風土坊のブログ-03   筑豊風土坊のブログ-04
     雪のボタ山(昭和29年)        忠隈第7坑人車卸スキップ巻き(昭和29年)

筑豊風土坊のブログ-05 筑豊風土坊のブログ-06
    炭坑住宅とボタ山(昭和29年)           炭坑住宅とボタ山(昭和29年) 

 筑豊風土坊のブログ-07 筑豊風土坊のブログ-08
     ボタ山山頂より(昭和29年)               切り絵の飯塚駅とボタ山

 筑豊風土坊のブログ-09   筑豊風土坊のブログ-10      
      現在の忠隈のボタ山             現在の大将陣山より忠隈ボタ山


写真の中5枚は、 夢路波会(むじな会) 代表 藤木徹雄氏 の写真を使用させていただきました。


                    位 置 情 報
中央山   
北緯33度37分07秒   東経130度41分29秒   標高 141.3m

北西頂   北緯33度37分08秒   東経130度41分26秒   標高 138.5m

北東頂   北緯33度37分08秒   東経130度41分34秒   標高 113.8m



      次回は  筑豊近代化遺産 忠隈炭坑ボタ山 その2  へ