一杯のかけそば vol.2 | エキセントリックギャラクシーハードボイルドロマンス         

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〜文学、お笑い、オートバイを愛する気高く孤独な三十路独身男の魂の軌跡〜 by久留米の爪切り

このブログ記事は決して感動的なストーリーでは無い。一人のくたびれ、目の下に隈を作った夜勤明けのみすぼらしい三十路男性が、「一杯のかけそば」を頼み、食し、満足した、という大変陳腐で愚劣な内容である。涙活でデトックスを試みたい御方には不向きで、得るものは無である。


頭にバンダナを巻き、紺色の作務衣を着た御主人らしき方が丁度、店の前に出てきた時だった。その5月の日曜日、朝は肌寒さを感じウインドブレーカーを羽織っていたものの、正午前には、照りつける陽射しが眩しく、気温はぐんぐん上がり、徒歩でぶらついていた僕の肌着は汗でべっとり張り付いていた。自分では気付かないけれど、両脇からは飛び切りの異臭を放っているに違いない。店頭に掲げられた御品書きを眺め、値段を確認すると、尻のポケットから長財布を取り出し、僕は小銭を数えた。慎重に。レジの集計をするスーパーマーケットの店員みたいな真剣さで。


(…ウン、足りる)


僕は優しい眼差しで見つめる店主に軽く会釈して、店内に通された。



久留米市篠山町179、市役所北側、三本松通りにある「彩舞庵(さいぶあん)」さんだ。裁判所の近くにあるから、こういう屋号なのか、駄洒落なのかな、粋だな、と僕はぼんやり思う。元々東京出身の御夫婦が営んでいるらしい。関東の蕎麦、九州から、いうより福岡県久留米市界隈から殆ど出ない僕にはなかなか食べる機会は無いし、興奮してしまう。



中央に厨房があって、大きな釜が見える。取り囲む形でカウンター席が設けられていて、民芸品調なごつごつした丸太の椅子に茣蓙が敷かれている。奥に庭園と、テーブル席もあるみたいだ。壁面に西洋の絵画が掲げられていて、下に値段も書いてある。売っているようだが、僕にはとても買えない値段だった。生憎、僕の財布には小銭しか入っていないし、そもそも特に欲しくも無い。婦人の趣味らしき、デコパージュ、という手芸作品も数多飾られている。純和風な店構えと対照的な内装だ。


僕は「かけそば」700円を注文した。当然、一杯だけだ。



まず、蕎麦がき、が提供された。かりんとう饅頭みたいな見た目だけど、かりんとうの要素はゼロなので、全然甘くない。殆ど食べた経験の無い味、いや全くの初めてだったかも知れないので、僕には表現するのが甚だ困難だ。やや表面がカリッとした薄味の淡白な饅頭に醤油味のタレをかけた、そんな感じだろうか。



次に赤い大きな盆で、茶碗蒸し、それに漬け物の類いが二品、配膳された。一杯のかけそば、にしては豪勢な品数である。茶碗蒸しは良い出汁が効いている。小さいのでペロッと半ば飲んでしまう。



官能的にくびれた洒落た器で、遂に「かけそば」が登場した。


(…黒い)


最初の感想は、色合いに関するものだった。その黒く熱い液体を僕は啜ってみる。酸味があり、あっさり上品な味がする。醤油味で塩辛いんじゃないのか、という邪推は外れる。黒い小さな粒々が刻印された真っ直ぐな蕎麦を口に含み、コシを感じつつ噛む。すると、香りというのか、風味というのか、ふわあっとした何かが一瞬の内に広がって、静かに消える。神秘体験みたいだった。黒く美味い液体を最後まで飲み干すと、僕はまた、汗をかいた。



彩舞庵そば(蕎麦) / 久留米駅
昼総合点★★★★ 4.0