逃げ水 第40話
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その夜を限りに、由香里は直樹と外で会うようになった。近所の主婦たちに、篤志が海外へ赴任していると言ってしまった手前、男がしょっちゅう家に出入りするところを見られてはまずいと判断したのだ。
夫から離婚届を突きつけられた身の上である。心の底では、誰かに「浮気」の現場を見られたところでそれがどうしたという開き直りもなくはないのだが、今のところ彼女は、表向きはあくまでも夫の留守を預かる貞淑な妻である。慎重な行動を取るに越したことはない。
海外赴任だなんて言わなければよかったな、と由香里は舌を出すように後悔した。篤志と直樹は背格好が殆ど同じで、顔さえ見られなければ他人の男が出入りしているとは、ましてや夜闇の中では誰も思わないだろうから。
「それもそうだなあ」
外で会うことを提案しその理由を説明した由香里の耳に、受話器を通して直樹の笑い声が聞こえた。
「こっちは本当に海外赴任だから、誰が来てもヤバイけどね」
「第一、私が出入りしたらすぐに見分けられるでしょ。広海さん、こんなに身体を振って歩かないもの」
「そりゃ確かに丸分かりだね」
彼女が口にする身体的な自虐ネタを、例によって直樹は遠慮なく笑い飛ばす。彼の、決して由香里の障害から目をそむけない言動は、素直な人間性の証であるかのように、ますます彼女の心を虜にする。
由香里は毎週土曜日になると、直樹と外でのランチを共にした。遠出とは言わないまでも、電車でよその町まで出かけてそこで落ち合うこともある。地元での人目を忍ぶためではなく、単に同じ店での食事が続くと飽きるからという単純な理由、そしてあくまでも気分転換のためである。
その日は、由香里の町から電車で15分かかる駅ビルのあるにぎやかな街で、二人は簡単なイタリアンのコース料理を楽しんでいた。
「何だか妙なんだけど」
彼女はパスタにフォークをさしながら、小さな声で直樹に語りかける。
「手続きのことで説明を聞こうと思って市役所に行ってみたの。本当に末村のままの保険証使っていいのかと思って。それで念のため戸籍謄本を見てみたら、まだ篤志さんの名前にバツがついてないのよ。私、末村由香里のままなの。この時期にそれってありうると思う?」
「そうなの? 離婚してないってこと?」
直樹は丸い目をますます丸くし、顔を寄せて聞き返す。彼らの周りにいるのは多くが女性客で、それぞれがおしゃべりに夢中だからそんな気遣いは無用なのに、と思いつつも、由香里はその親しげな行為に胸をときめかせた。
「あれから一か月近く経つんだけど。だから未だにずっと篤志さんの分も払い込まなくちゃいけないの。実質、出所は彼だからそれはいいんだけど、どうなっちゃってるのかしらね」
「なんだろうなあ」
トールサイズのグラスに注がれたミネラルウォーターを一旦口に含んで、直樹は首を傾げる。そして先刻と同じように顔を近寄せた。
「彼が離婚届を出さずに旅立ったとは考えられないかな」