近づくほどに消えてしまうもの。
元々そこにはなかったもの。
醜い真実が明らかになっていく中で、
彼女が最後に選んだ結論は・・・。
逃 げ 水 第一話
夫の篤志が家に戻らなくなって五日間が過ぎた。
結婚以来、彼の外泊は出張も含めて珍しいことではなかったのだが、妻である由香里に連絡もせずに家に戻らないというのは初めてのことだった。今日は泊まっていくからと一言連絡さえくれれば、彼女は夫がどこに泊まろうと何が目的であろうと、何一つ詮索をしてこなかったのであるが。
おそらくその外泊の中には、妻である由香里には隠しておきたい後ろめたいものも含まれていたのであろうが、それも彼女は追及しない。興味がないわけでもないしそれほどお人よしというわけでもない。また、結婚前から女性にはマメな男であったという篤志の一面に諦めを抱いているわけでもなく、ともかく無事でさえいてくれれば、どこで誰と何をしようと問題ではなかったのである。
自分のような、働けない上に子供も授からない女と結婚してその暮らしを支え、八年も添い遂げてくれた彼に対して、由香里は一日とて感謝の気持ちを忘れたことがない。篤志という人が存在しなければ今の自分もありえなかったわけだし、今こうして平和に人並みな主婦として安らかに暮らしていけるのは、ひとえに夫のお蔭、八年前の彼の、決意と勇気のお蔭であるのは、間違いない事実だから。
だからこそ由香里は、夫の外泊ぐらいは多めに見てきたのだ。子どもにも恵まれず、衰えていく以外に永遠に変わるはずのない金太郎飴のような毎日を続けていかざるを得ない彼を、たまには解放してやりたいとすら彼女は思ってきた。自由を与えてやりたいと、風穴を見つけてほしいと。
だから連絡さえくれれば、何も文句は言わなかった。篤志がいなければ家の中が乱れてしまうほど由香里は無能ではない。彼の無事さえ確認できれば、たとえほかの女性の部屋へお泊りであることが判明しても、彼女には文句を並べたてるという発想すらなかったのだ。
だが、今回は無断外泊である。しかも一日や二日のことではない。当然ながら、由香里は夫が何らかの事故か事件に巻き込まれたのではないかと心配した。だが、それならばそれで警察関係者から電話があるだろうと考え、そちら方面への調査はひとまず諦めて、二日目の朝、篤志が勤めている会社に電話を入れてみた。
「宣伝部の末村篤志の家内です。お忙しいところ申し訳ありませんが、主人をお願いできますか?」
緊張気味の由香里に対して、若いが品のよい声の女性が丁寧に応対した。
「ただいま来客中でございますが、後ほどおかけするように申し伝えましょうか?」
由香里は、特に急ぎの用事ではないので結構ですと返事をして電話を切った。
何だ、無事だったのか、出社はしているのか、という安堵感でいっぱいになり、家に戻らないのに会社には行っているという異常な状態の奇妙さにさえ気づかずに、彼女は一人ぼっちのリビングルームのソファにゆったりと腰を下ろす。
確かに、仕事中の彼にわざわざ連絡をよこしてもらうほどの用事はない。だが、よくよく考えてみれば、夫が連絡もなしに何日も家に帰らず会社にだけは顔を出しているというのは、財布を盗まれたり突然解雇になったりするよりも、ずっと重大な問題のはずである。
だが、由香里は本人に確かめようともしなかった。翌日も会社に電話を掛けて、応対した若い社員の「ただいま課長は席をはずしております」という留守番電話の音声ガイドのような冷たい口調に呆れてしまい、思わず「じゃあ、結構です」と受話器を置いてしまった。知らず知らず、苛立ちが募っていたのだろうと、彼女は静まりかえった固定電話を見下ろしながら自分を慰めた。