「差別はたいてい悪意のない人がする」★★☆☆☆ | Jiro's memorandum

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泉治郎の備忘録 読書の感想や備忘録 ※ネタバレ注意
【経歴】 日本株アナリスト、投資銀行、ネットメディア経営企画、教育事業経営、人材アドバイザー、新聞社経営管理、トライアスリート

「差別はたいてい悪意のない人がする」(キム・ジヘ)

 

 

中2の娘が学校の課題で読んでいた本。読むのに苦労していたようだが、確かに中2には少々難しい内容だ。

 

 

黒人が奴隷として扱われた時代は終わり、黒人が白人と同じトイレを使えない時代も終わった。日本人が外国人に持つ印象も、親世代、自分の世代、娘の世代で明らかに変化している(もちろんよい方向に)。孫世代になったときには、いまでは想像できないような国のアイドルが大人気になっているかもしれない。

 

人種間、男女間、などあらゆる種類の差別がなくなる方向は間違いないと思うので、そんなに深刻になって考えなくても・・・と本書を読みながらときどき思った。個人的に差別で不快な思いをしたことがあまりないのでそう思うのかもしれない(ドイツで少し嫌な気分になったことがあったが、世の中そんなものかと思う程度だった)。

 

とはいえ、差別をなくそうと活動してきた人々の努力あって今があると思う。特別な活動をしなくても、これまで意識していなかった「特権」や「固定観念」に気づき、知らないうちに誰かを差別していたことに気づき、差別されて不快な思いをしている人の気持ちを理解しようとすることは、とても大事なことだと思う。

 

すべての世代が、このような本やさまざまな機会で差別について考え、寛容な心を育んで、大きな争いも小さな争いも、少しづつでも無くなっていけばよいな、と思う。

 

 

以下、備忘

 

 

差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。

 

 

人は自分を同一視する集団に優越感を持たせる冗談、すなわち自分とは同一視しない集団をこき下ろす冗談を楽しむ。もしも相手の集団に感情移入してしまうと、その冗談はもはやおもしろくなくなる。

 

 

人は、自分が客観的で公正な人だと信じていると、自己確信の力によって、より偏向した行動をとる傾向がある。・・・自分が性差別主義者ではないことを示したはずの人が、次の実験では、ためらいもなく性差別を肯定するような行動をとっていた。・・・こうした現象を「能力主義のパラドックス」と呼ぶ。

 

 

だれにでも表現の自由があると言われる。しかし、実際にはマジョリティとマイノリティの自由は同じではない。ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』で指摘したように、マジョリティはマイノリティの意見を思いきり攻撃することができる。一方、マイノリティは「穏やかな言葉を慎重に選んで、不要な攻撃を受けないように用心」するよう求められる。しかしマジョリティは、マイノリティの話に耳をかたむけないまま、かれらに丁寧に話すことを要求する。

 

 

『差別されないための努力』から『差別しないための努力』に変えるのだ。

 

 

韓国にはこんなことわざがある。「何気なく(いたずらで)投げた小石にカエルは打たれて死ぬ」。差別やヘイト表現は、何気なく投げた小さな石のように、おこなう側からは些細なひとことだっただろう。しかし、その石に当たっただれかは大きな心の傷を受けることになる。