総選挙の最大の争点は原発?消費税?TPP?外交・安保?_05
総選挙の最大の争点は原発?消費税?TPP?外交・安保?_05
01→ http://ameblo.jp/konrad-nachtigall/entry-11424683065.html
04→ http://ameblo.jp/konrad-nachtigall/entry-11427366796.html
「04」のおさらい
・ 選挙には様々な争点があり、それらの間での優先順位を決めるのは難しいことだが、「1つ1つの個別政策を通じて最終的に達成したい、究極の目標」「自分にとって最も大切な価値」をはっきりさせることが大事。
・ 価値観の自由は、大切である。 価値観を他人から押しつけられるということがあってはならない。
・ けれども、客観的に「整合性のある価値観・矛盾のない価値観」を考えることはできる。 「自己破綻をきたしてしまうような価値体系」「持続不可能な価値体系」に縛られてしまうことのないように、「一番大切な価値」「最上位の価値」を合理的に設定することが肝心。
「○○という価値を最上位に据えて、その価値の実現を追い求める。 すると、その価値を実現するための基盤・前提条件が崩れてしまう、壊れてしまう」というタイプの「自己破綻に陥ってしまうような価値体系」については、「04」でも例を挙げましたが、この「05」でも少し考えておきましょう。
例えば、「わしの人生の最大の目標は、とにかく金持ちになることだ。 手段は選ばん。 どんなやり方を使ってでも、とにかく稼ぐぞ」というDさんがいるとしましょう。 「『稼いだ金を使って何をやりたいのか』という、『その先の話』が欠けているではないか」という批判や、「精神的な価値を無視している」という類の道徳的な観点からの非難は、ここでは脇に置いておきます。 それでもなお、Dさんの価値観には、難があります。 他人の利益を顧みないで、とにかく自分が利得を上げることだけを追及する ―― そんなやり方を続けていくと、周りの人々が困窮するようになります。 最終的にDさんは「周囲の連中がロクに金を持っていないというのに、わしはどこから金を巻き上げれば良いんじゃ」という境遇に陥ってしまうわけです。
「風桶のようなストーリーだなあ」と感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、決して絵空事・架空の物語ではありません。 「04」では、中国における生産力と内需との不均衡、ということに触れましたが、似たような出来事は他の国でも見られます。 若い読者の中には「バブル」の時代を知識としてしかご存じない方もいらっしゃるでしょうが、あの時代には、本当に「手段はどうでもいい」と、大企業がマネーゲームに狂奔していました。 メーカーなども、実業・本業そっちのけで投機にのめり込んだのです。 この現象を早くから批判している人もいましたが、あまりまともには取り合ってもらえませんでした。 「大企業の金回りがよくなれば、その金が投資に流れ、雇用が拡大し、需要が増加し、したがって企業はさらに投資を行い… というポズィティヴなスパイラルが生じ、実業も充実する」という思い込みが、世の中では幅を利かせていたのです。 けれども、大企業は、「投機で稼いだ金をさらに投機につぎ込む」というゲームに没頭しました。 しかしながら、そんなやり方がいつまでも通用するわけがありません。 相場がどこまでも上がり続けるなどということは、ありえません。 必ずどこかで反転せざるを得ないのです。 バブルははじけ、その結果が、現在に至るまで数十年も続いている不況です。 「通貨がダブつけば、通貨をダブつかせさえすれば、回り回って経済全体が底上げされ、庶民も潤う」という見解は、非科学的な楽観論だったのです。
あの時代に、実業への投資が行われなかったわけではありません。 また、庶民がおこぼれに一切与らなかった、というわけでも ありません。 けれども、バブル崩壊後の経済的荒廃の深刻さに鑑みると、「手段は何でもよいから、とにかくより多くの利潤を上げる。 利潤率の極大化を、至上の価値とする」というのは、「トータルで考えると、あるいは、長期的な視程で見ると、大損だ」という結論にならざるをえません。 「貧富の格差が…」というような、左の立場からの批判は脇に置くにしても、マネーゲームのプレイヤーであった大企業自身が、「巨額の不良債権」という「ギャンブルのツケ」に苦しんだ (一部は、今でも苦しんでいる) のですから。
まともな経済学を知っている人が評価すれば、「儲けを大きくする、より大きくする、さらにさらに大きくする、これが唯一絶対の目標」という価値観は、「その価値を実現するための行動自身が、『儲けること』が可能であるような環境を破壊してしまう」という意味で、自己矛盾的なのです (時間の余裕がありませんので、今回は、その経済学的な説明は省きます)。
では、Eさんの次のような価値観はどうでしょう。 「俺にとっては、プライド・誇りが一番大事だ。 『俺は間違ったことなどしない、今までしたこともない』『俺は偉い』「俺が一番」という感情、これは譲れない。 俺のプライドを傷つけるようなことは、何一つ許さない」。
自尊心を持つことは大切でしょう。 けれどもそれは、「努力をして自分の能力を高め、その能力を発揮する」という現実の結果として付いてくるべきものではないでしょうか。 「誇りを持つ」ことが自己目的化してしまうというのは、如何なものでしょうか。 自分を高める努力、間違いや弱点を直視してそれを改善し、「より良い自分」になろうとする努力 ―― それを伴わない「自尊心」「プライド」は、むしろ、「虚栄心」と呼ぶほうが適切かもしれません。
もちろん、Eさんが虚栄心に溺れ、自己満足にひたろうが、彼の自由です。 けれども、そのようなメンタリティに基づく立ち居振る舞いは、却って、誇りを持つための障害になってしまいそうです。 例えば、Eさんが間違いを指摘された場合、というのを考えてみましょう。 「間違いを認めない。 事実を否認したり捻じ曲げたりしようとする」 「『××さんだって同じことをしてるじゃないですか』『いや、良いところだって評価して下さいよ』と開き直る、自分のまちがいを相対化しようとする」、こういう反応しか返ってこないような人を、あなたは尊敬できるでしょうか。 Eさんは結局周りから白い目で見られるようになり、とどのつまりは、自信・誇りを持つための根拠が失われていくわけです。 流石に「虚栄心にしがみ続けて、失敗を認めぬ態度を貫き、会社をクビになり、『誇り』を抱く主体であるEさん自身の生存そのものが 遂には危うくなりました」というところまで自己顕示欲の強い人は あまり いないでしょうけれど…。
個人の行動ではなく、国家のパフォーマンスについても、同じような事情が成り立ちます。 世界には歴史上、また現在も、Eさんのような言動をとる国家が存在します。 過ちを指摘されても、「他にもやっていた国がある」「役に立つことだってやった。 そっちも見てくれ」という反応をする ―― 例えばそういう国家もありますが、このような振る舞いでは、国際社会における尊敬を得ることは出来ません。 逆に、ドイツ(ドイツ連邦共和国)のように、「事実を事実として認め、償いをする」という行動によって、肯定的な評価を受けている国もあります。 尤も、ドイツは、何も自尊心を満足させるために賠償を行ったわけではありませんし、それに、ドイツの戦争犯罪の特殊性とか、ドイツが過去を直視せざるを得なかった事情・国際環境とかいうことについても考える必要がありますが、この記事では割愛します。
しかし、いずれにしても、多くの他者から高い評価を受け、客観的な根拠に依拠して自分を誇れるようになるためには、過度な自尊心は むしろ邪魔だと言えるでしょう。
ならば、「他の何よりも尊重されるべき価値」をどのように設定すれば、自滅を回避できるでしょうか。 いかなる価値を価値体系の最上位に据えるのが、合理的なのでしょうか。
それは「自由」だ、と私は考えます。
「主権者が政治上の選択をするにあたっては、どのような価値を最も重視して政党を選ぶべきか」という この記事の問題意識との絡みで もう少し詳しく述べると、「自由と人権、そして、それを担保するための制度である民主主義、これらを大事にしているかどうかが、政党選択の何よりもの基準であり、最優先のチェック項目だ」ということです。
「大変な不況時に、自由だの人権だの、腹の足しにもならないことを抜かして、こいつ 国民の苦境が分かってないだろ」 「日本の領土が脅かされている非常時に、民主主義なんぞは後回しだろ」 「原発事故が再び起きたら日本は壊滅的だというのに、エネルギー政策よりも人権に熱心かどうかのほうを優先して政党をチョイスしろとは、あなたには現実が見えてないんじゃないの」。 様々な反論があるでしょう。 「自由・人権が究極の価値」 「自由・人権と、それを下支える民主主義、これらの擁護に積極的なのか、それとも消極的なのか ―― それこそが、政党を評価する際の一番のポイント」と言われても、納得できる人は多くないかもしれません。
というわけで、次回「06」では、「なぜ自由が最重要の価値なのか」という説明をいたしましょう。 その冒頭では、「自由」とは何なのか、「自由」をどうとらえるべきか、「自由」をどう定義すると自家撞着的な価値体系を避けることができるのか、という問題について述べることになると思います。
「05」はここまで。
次こそ本当に完結編になる予定。