長いです。 | 僕のどうでもいい日常。

僕のどうでもいい日常。

マイペースに更新していきます。
音楽と写真と美味しいものが好きな20歳男子のブログ。

久しぶりに自分の考えを構成していたものが、
ふとした出来事で崩れかけてきて、
昔の考えがおはようさんと顔を出してきました。

ここ3日ぐらいぼーっと考えているのです。


何事にも動じない、
全てに無関心なスタンスがふらっとバランスを失うと、
とても大変だなぁと思います。

私は意外と心配性(僭越ながら自負しておりました)だったので、
いろんな人の面倒を見ていたのですが、
さすがに毎日毎日人の心配をしていたら参ってしまって、
とても大変な時期がありました。

人の面倒、心配をするのは、
おばあちゃん、母親ゆずりで、
自分でも割と好きな行為だったのですが、
高校生に入って間もないころに、
それをポイと放棄しました。

疲れちゃうので。

ちょっとだけ心配する事ができたらいいのですが、
私は一回心配すると自分がペラペラに擦り減るまで心配してしまうので、
そんな自分が嫌になりながらも、
放棄する事を選びました。

そして今の、
全てに無関心なスタンスが完成されました。

このスタンスはとても便利で、
大人の世界での汚い事や、
若さ故の面倒くさい恋愛事情、
価値観が合わない人からの批判や中傷、
様々な所で、
傷一つつかないピカピカの精神を保つ事ができました。

でも、
それと同時に、
競争心、向上心というものも無くなりました。

それが無くなる事にさえ、
関心を無くしていたので、
自分ではどうでもよかったのですが、
人からは寂しい人間と言われました。

それでもそう言われる事にさえ関心がないので、
完全に、
傷一つつかないピカピカの精神を保つ事ができました。

3年間、
友達もあまり増やさず、
閉鎖的に生きてきて満足でした。

しかし、
高校を卒業してから、
高校の友達や中学の友達、
あまり仲良くなかった懐かしい友人とも、
ご飯にいく機会が増えました。

きっと、
学校という強制的な関係性が無くなったから、
安心して他人として交流を持つ事が、
できるようになったからだと思います。

それが故に、
人との交流によって生まれる、
先祖から遺伝子レベルで受け継いできた、
本能的な快楽を得る事を、
思い出してしまいました。

本能的という言葉を、
嫌っていたのに、
本能的快楽を味わってしまうという皮肉に、
ぺちゃんこに潰されましたが、
それでもそれはとても心地がよかったです。


それからぼろぼろといろんなものがはがれてきて、
じぶんのかんがえが、
いまとむかし、
はんぶんこくらいにまでなってしまいました。


とても大切で心配な人がいるんだけど、
それは好きとかそういう次元ではなくて、
もうそれも、
ただ本能的に、
遺伝子が心配してやれと命令を下しているかのように。

だけど、
心配しすぎて胸がジリジリに焼き付くように痛くなるので、
必死に無関心スタンスを再構築しようと、
脳みそに命令を下しているのだけれども、
今まで閉じ込めていた分、
力をパンパンに溜めていた本能さんが、
とても強くて。




とても疲れる。




とても極端な自分が、
すごくめんどくさいですが、
それはそれで、
人生を両極端から楽しめてる気がするので、
良しとします。



他人を大事ににして、
自分が擦り減って疲れるのに耐える。

他人を無視して、
自分の世界だけで人生を楽しむ。



どっちがいいかなんか決められないです。



きっと、
平均的価値観をお持ちの方は、
前者を選ぶんだと思いますが。





とりあえず、
こう文面にしてみると、
いろんなものが見えてきて、
少しばかり気持ちが軽くなるので、
ダラダラな長文ですが、
書いてよかったなぁと思います。


そして、ここまで読んでくださった方は、
とても優しい方だなぁと思います。


厚かましいお願いですが、
コメントに理由も含めて、
先ほどの二択についての考えを書いていただける方がいると、
私はとても嬉しいなぁと思います。




それでは、
ありがとうございました。








おしまい。