潜在意識を操作し戦争へかりたてる心脳コントロール社会 | すくらむ

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 一昨日のエントリー「軍隊が必要と思う「動物の脳」、人間を取り戻す憲法9条」 に対して、様々なコメントが寄せられています。講義の中での質疑応答の一部を紹介した形でしたので、言葉足らずによる誤解も多く生まれているようです。以前から憲法や平和の課題のエントリーには、多くの疑問が寄せられるので、そうなったときの対処についてあらかじめ小森さんに相談しておきました。一昨日の小森さんの話のもとになっているのは、『心脳コントロール社会』(小森陽一著、ちくま新書)という書籍です。疑問が寄せられた際には、この書籍から引用してもらってかまわないということでしたので、以下紹介します。(byノックオン)


 「怒り」は「動物の脳」で生じる

 (小森陽一著『心脳コントロール社会』26ページより)


 脳科学の成果によれば、「怒り」という気分感情は、言葉を操る生きものとしての人間独自の前頭前野を有する新皮質としての大脳皮質ではなく、旧皮質と言われ、「動物の脳」として位置づけられている大脳辺縁系で発生するのです。


 最先端脳学者の東北大学・川島隆太教授の著作『脳を鍛える』(日本放送出版協会)では次のように書かれています。


 「たとえば原始的な「怒り」や「恐れ」といった感情は、大脳からではなく、大脳の内側にある辺縁系と呼ばれる場所から出てきます。人間に限らず、脳を持つ動物はすべて辺縁系を持っています。その目的は、ファイト(fight=戦い)とフライト(fright=恐怖)という2つの「F」に結びつきます。私たちは自分を脅かすものに対して、怒りや恐れの感情を抱きます。そこで勝てると判断したときには「怒り」が強くなって戦いを選び、負けそうだと感じたときには「恐れ」が先にたって逃げる--つまり、戦うか逃げるかという選択をし、個体の生存を図るためのシステムがはたらき、その源になっているのが怒りや恐れの感情というわけです。こうした感情は、人間に限らずすべての動物がもっています」


 大脳辺縁系は、扁桃核、帯状回、海馬、脳弓、中隔核によって構成されています。『心と脳はここまでわかった!目からウロコの脳科学』(富永裕久著、茂木健一郎監修、PHP研究所)によれば、「扁桃核は本能的な快・不快を感じる部分で、アーモンド(扁桃)に似た形状をしていることから、この名前がついた。また、恐怖を感じるのも扁桃核の働きであり、ここを外科的にとってしまうと、何事にも恐れを感じなくなってしまう」のです。


 「怒り」を中心にした感情をあおりたてる、「敵」としての「彼ら」をイメージ化する情報は、人間としての言語的思考を停止させ、動物的な反応、快・不快の単純化された二項対立の二者択一を、気分感情で行うような状態に人間を追い込んでしまうことになるのです。


 「心脳マーケティング」とは何か(42ページより)


 ハーバード大学大学院名誉教授ジェラルド・ザルトマンは、ハーバード大学経営大学院市場心脳研究所の所長です。この研究所は、認知脳科学の世界的権威と言われているスティーブン・M・コスリンが共同所長をつとめる、潜在意識と消費行動との関係を、最先端の学問領域の研究成果を基にして考察し、実践的なマーケティングの手法を研究するところです。


 「心脳」という概念は、認知神経学に基づくもので、「人間の心とは脳が活動することである」という脳科学的認識を前提にした専門用語です。


 ザルトマンは、イメージやメタファーを通じて、消費者の潜在意識を調査する、「ザルトマン・メタファー表出法」を開発し、すでに多くの実践例を生み出しています。(ザルトマン著『心脳マーケティング~顧客の無意識を解き明かす』ダイヤモンド社)


 ザルトマンは、まず人間の意識的思考よりも、無意識の思考を重視します。なぜなら、人間の認知や認識の95%が心の陰の部分、つまり意識されない領域で起き、意識されているのは、わずか5%だからだ、と言うのです(実際は、1秒間に全身から脳に伝えられる情報は数百万ビットに達するのに対し、意識にのぼる情報は40ビットに過ぎず、意識化されるのは全情報の0.001%程度だと言われています)。ザルトマンは、人間の認知や認識の領域を2つに分け、95%の部分は「認知的無意識」、5%の部分は「高位意識」とされています。「高位意識」は、「自己認識と自己反省を行う人間の性向」であり、「他のあらゆる生物と人間とを区別するものである」とザルトマンは位置づけています。


 「心脳マーケティング」の手法の中で最も重視されているのは、個人の記憶と社会的集合記憶との関連です。記憶を、社会的な出来事としてとらえ、個人の内側の記憶と、個人の外側としての社会的集合記憶を、どのように結合させて操作するかが、技術的な要になるわけです。記憶の社会的側面、とりわけ社会的集合記憶を重視することは、言葉を操る生きものとしての人間をマネジメント(調教)する際には、いわば社会的集合記憶に支えられているわけですから、言葉で形成されている意識と無意識との関係を接合するためには、個人の内側と外側の記憶双方を操作するのが、最も確かな方法だ、ということになります。


 ザルトマンは、記憶を「自発的に想起することができる」「顕在記憶」と、「自発的に想起することのできない」「潜在記憶」に分けて考えます。


 「潜在記憶」は「自発的に想起することのできない記憶」であるにもかかわらず、私たちの日々の「思考や行動に強い影響を与えている」のです。なぜなら「潜在記憶」は、「人間の進化過程としてはより早い段階に形成された脳の構造に依存している」からです。


 「War on Terror=テロとの戦い」の背景(80~86ページより)


 2002年のアメリカの大統領一般教書演説で、イラク・イラン・北朝鮮3国を名指しして「War on Terror=テロとの戦い」を行う、とブッシュが宣言しました。多くのアメリカ国民が、このスローガンに対して、なぜ「快」というイメージを持ったのでしょうか。


 このことを、人間の言葉の習得の過程と結びつけて考えてみましょう。まず、「快」か「不快」かの二者択一で世界を分割していくのは、フロイトが「快感原則」と位置づけた、0歳児の段階、言語習得以前の段階であることは明らかです。また、「快」か「不快」かという気分感情は、「人間の脳」としての大脳皮質ではなく、その内側の「動物の脳」である辺縁系から出てきます。ですからアメリカ国民全体を言語習得以前、人間ではなく動物の段階におとしめて、戦争に動員するためのキャッチ・コピーが「War on Terror」というスローガンだったのです。


 言語習得以前の記憶は、すべてが知覚感覚的な記憶ですから、自らの意思で思い起こすことはできません。ですから「War on Terror=テロとの戦い」というスローガンは、ほとんど潜在意識の底に沈んだ、けれども、多くのアメリカ国民の脳裡に刻まれているはずの、大衆化された社会的集合記憶に働きかけようとしていたのです。


 ここで潜在意識の下に沈んだ社会的集合記憶を操作する一つのキーワードになっているのが「悪の枢軸」という言葉でしょう。この言葉によって、まず60年ほど前の、大衆化された社会的集合記憶を想起させようとしています。


 周知のとおり、「枢軸国」というのは、第1次世界大戦後結成された国際連盟から脱退し、第2次世界大戦を起こした、ナチズムのドイツ、ファシズムのイタリア、そして治安維持法的天皇制主義の日本という、1937年に「日独伊防共協定」を結んだ「3国」を中心にしてつくり出された、「連合国」の敵です。


 侵略を受けたヨーロッパの人たちの力で倒すことのできなかったドイツとイタリア、アジアの人々が自力で倒すことのできなかった日本を、1941年12月以降参戦することによって打ち破ったのが、アメリカであった、という社会的集合記憶が「枢軸国」という言葉から引き出すことができるのです。つまりアメリカが世界における「正義の味方」になった「World War Ⅱ」の記憶を導き出すキーワードが「悪の枢軸」なのです。


 「World War Ⅱ」におけるアメリカの「英雄性」については、ハリウッドが生産しつづけてきた戦争映画をはじめ、「コンバット」に代表されるような戦争物テレビドラマによって、大衆化された社会的集合記憶が再生産されつづけたことは言うまでもありません。「悪の枢軸」という言葉は、こうした記憶を、そうとは意識させずに刺激し、それにまつわる「正義の味方アメリカ」、「正義の戦争」というイメージを、引き出し、それらを「War」という言葉にまとわせることを可能にしたわけです。


 第2に、「War」という言葉をとおしてアフガニスタン攻撃の失敗の記憶を忘却させようというねらいについても、見逃してはなりません。潜在化された限りなく無意識に近い大衆化された社会的集合記憶を引き出す操作と、最も重要なことを忘れさせる「心脳」操作は、常に一体のものであることを、私たちは、しっかりと意識しておく必要があります。


 「defense」という名の戦争


 アフガニスタン攻撃は、アメリカのアフガニスタンに対する「個別的自衛権」の行使すなわち「defense」(正確に言うと「self-defense」)という名の戦争でした。つまり国連憲章第51条に基づく戦争です。


 国連憲章第51条は次のような条項です。


 第51条 この憲章のいかなる規定も国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(後略)


 いわゆる「自衛権」、自衛のための戦争すなわち「defense」の「権利」についての規定です。


 アメリカは、この「defense」という名の戦争を、第2次世界大戦後ずっと世界中に対して行ってきたのです。ベトナム戦争も「defense」という名の戦争でした。


 なぜなら、アメリカ合衆国憲法では「国家主権の発動としての戦争」、すなわち「War」という名の戦争を行うためには、連邦議会での決議をうけて、大統領が相手国に宣戦布告をしなければならない、と定められているからです。さらに、第2次世界大戦後の国連憲章の下では、第2条4項で「すべての加盟国はその国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と、先制攻撃としての戦争そのものが禁止されているからです。


 けれども国連憲章第51条に基づく「defense」という名の戦争は、大統領命令だけで遂行することができるわけです。


 アメリカによる多くの軍事行動は「defense」という言葉の下で遂行されたのです。そして、この「defense」という名の戦争が、いわゆる「勝利」をおさめたことはありません。ベトナム戦争は泥沼状態となり、世界の大国アメリカが、ベトナムに敗北したのです。「defense」という名の戦争に対して、多くのアメリカ国民は「不快」というイメージを抱いてきました。


 2001年からアメリカが始めたアフガニスタン攻撃は、アメリカを「9.11」で攻撃した犯人がアフガニスタンにいるという理由で、「個別的自衛権」の行使として行われたわけですが、アメリカの思い通りにならないタリバン政権をつぶすことができたものの、ビンラディンは捕まえられなかったわけですから、またしても「defense」という名の戦争は失敗に終わったわけです。その記憶をアメリカ国民の意識から消し去るために、ブッシュ大統領は、「War on Terror=テロとの戦い」というスローガンを、フランク・ランツの進言によって選択したのです。


 なぜなら、マーケット・リサーチの結果、「War」という言葉は、「快」としてアメリカでは多くの人々に受け止められていることが明らかになったからです。どうして、そのようなことが起こるのでしょうか。それは、「War」という言葉が、第2次世界大戦後のアメリカ社会の中で、比喩として使用されてきたからです。


 アメリカが実際に行ってきた軍事攻撃の多くが「defense」や、制裁「sanctions」という名の戦争だったわけですから、「War」という言葉は、アメリカ国内では、第2次世界大戦後、結果として多くの場合比喩として使われてきた、という経緯があるわけです。


 カリフォルニア大学バークレー校教授である言語学者ジョージ・レイコフ氏の分析(「Uc Berkeley Web Feature」2004年8月26日付)によると、たとえば、「麻薬を撲滅しよう」という比喩で「War on Drugs」。「貧困を撲滅しよう」という比喩としての「War on Poverty」。もちろん、この種の比喩はいくらでも作ることが可能で、「War on AIDS」(エイズ撲滅)、「War on Cancer」(がん撲滅)など、いずれも、人の命を救うというイメージを「War」という言葉に付与する使い方です。「War」が比喩として用いられてきたからこそ、そこから、国際法的概念としての「国権の発動たる戦争」という意味が消され、イメージに変換されてしまうわけです。「War on Terror=テロとの戦い」というキャッチ・コピーは、メタファーで「心脳」に働きかけるという「心脳」操作のみごとな応用です。


 さらにレイコフ教授は、もし目的語を「テロリスト」とすれば、テロリストに対しては「国権の発動たる戦争」をしかけるのではなく、「逮捕」だろうということは、多くの人にすぐ気がつかれてしまうから、抽象名詞としての「テロ」にしてあると説明しています。ですから、やはり比喩としての「War」になるわけです。


 思考力を奪う「メディアの壁」(176ページより)


 イラク側の爆破され、殺され、傷ついた犠牲者や遺体、女性や子どもの映像がいっさい切り捨てられたということは、あの湾岸戦争のときに開発された、「死」と「死体」を消去するテレビ報道が、イラク攻撃においては徹底して増幅されていったことを示しています。人間の「脳」がタブーにしておきたい「脳」の「身体性」の除去、「死」と「死体」の隠蔽が完遂された、と言うこともできるでしょう。


 現実に生起している大規模な殺戮は、視聴者にとってそれとして認識されることなく、テレビの映像として続々と垂れ流されていく映像は、「ハリウッドの娯楽戦争映画」のバーチャルな記憶、大衆化された社会的集合記憶としての「善玉」の勝利とだけ結合され、「善玉」の勝利、「死」と「死体」なき殺戮の完遂が、「快」をもたらす、ということです。そして0歳児的状態、「動物の脳」だけを使用するような状態に落とされたテレビの視聴者たちからは、実は言語能力そのものが奪われていっているのです。