子どもの命より自動車を優先する国は日本以外にない - 「官から民へ」で国民は排除される | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 動向が気になる学者というのが私には何人かいるのですが、東京大学の神野直彦教授もそのひとりです。その神野教授の講演録が、協同総合研究所のホームページ に掲載されているのをみつけました。「新しい働き方を考える~まちづくりと市民による仕事おこし」と題した講演で、2003年とちょっと古いですが、講演の一部に、「公(おおやけ)というのは何か」「公共とは何か」について語っているところがあり、国による公共サービスのあり方を考える上でも、非常に興味深かったので紹介します。(いつもの私の勝手な要約によるまとめですのでご了承ください。byノックオン)


 日本には「公(おおやけ)」の思想がありません。「公」というのは何か、「公共」とは何でしょうか?


 「公園」というのは、ドイツの文学者ゲーテがつくりました。ゲーテは、封建領主や貴族が独占している美しい庭園を、「すべての社会の構成員に開放せよ」と主張して、「公園」をつくらせたのです。


 そのゲーテの思想に共鳴した世界の諸国民が、すべての学術を社会の構成員に開放しようとして、「博物館」をつくる。すべての社会の構成員に美術を開放しようとして「美術館」をつくっていく。ソーシャル・インクルージョン=「誰もが排除されないで参加することができる」、これが「公」といわれるものです。


 日本人はこれを完全に忘れていますから、「民営化しろ」と言われて、「博物館」もみんな国立大学と同じように「独立行政法人」として真っ先に民営化されたんです。


 イギリスでも絶対そんなことはしません。イギリスに行く機会があったら大英博物館に行ってみてください。入館料など取られないタダですよ。「すべての社会の構成員が排除されないで開放されるもの」、それが「公」っていうことです。


 「道」も同じことです。「道」というのは、人間が交流する場です。人間が交流する権利を持っているんですね。ヨーロッパではしたがって、「道」と「道」が交わるところは、必ず「広場」になっている。そして、人間と人間が交流する権利を侵さない限りにおいて、自動車の通行を認めるんです。だから、街と街を結ぶ「道」はあまり人間が交流しないから、自動車が通っても良いけれど、街の中の「道」は人間が交流するのであるから、これは認めないんです。環境の問題だけで言っているのではなく、本来の「公の思想」があるからなんです。


 「道」というのは子どもたちが遊び、そこのローセキでいたずら書きをして、創造性をはぐくむ場です。ところが日本でどういうことを教えていますか? 「道で遊んじゃいけませんよっ!」です。私のウチの側に浦和レッズというサッカーチームがあります。私は小さいときからサッカーは道でやってきた。みんな道でサッカーやってきたんです。ところが今では浦和では道でサッカーできなくなっていますから、浦和はもうサッカーの街ではありません。とんでもない話です。サッカーを子どもがやれるところがない。子どもたちが遊べる場所がない。


 それどころか、日本では学校に通学するのにも、子どもたちは全国どこに行っても命がけです。そんな馬鹿なことやっている国はどこにありますか。パリのシャンゼリゼに行ってもその路地のひとつ裏に入っていただければ、子どもたちが縄跳びをしたり、遊ぶ道がちゃんとあって、車が通っていない。日本では本来人間が交流する場は完全に奪われている。これに対して誰も異議を申し立てない。「公」という概念がないからです。


 「公」の概念がないとどういうことになるか。絶対君主や王様がいて、「道」を「これはオレのものだ」と私的に占有していた。そして通せんぼして「金を払えばこの通せんぼをはずしてやるよ」と言ったんですね。これが有料道路です。この有料道路を持っているのは、日本とアメリカしかありません。日本は「公」がないものですから、「官から民へ」なんて言われて「道」で金儲けをしてしまう。


 現在のイラクに派遣されているアメリカ軍は「民営化されている軍隊」です。戦うところは本当の軍隊が行っていますけれども、後方支援部隊は全部アウトソーシングされているんです。「民」でできることは「民」でというなら、なんで「民」でできているのに自衛隊を出すんですか。民間機を出したらいい。日本も「官から民へ」「民間委託をしろ」と言うのだったら、合見積もりをとってやらせればいいじゃないですか。


 NPOとか、市民組織とか、そうしたところでできないこと、市民が自発的にやってできないところを、政府が最終的に責任を持つというのは、当たり前の話ですよ。責任を持たないとどういうことになるかというと、「いやぁ、今“官から民”の時代ですからねぇ、民間で、NPOでやらしてやってくださいよ」と、みんな責任逃れする、とういことになるんですね。