Ko-heyのブログ

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本日、栗城氏の追悼番組があったので、観てみました。

 

BSジャパンの番組ページ

追悼 栗城史多さん「頂の彼方に ヒマラヤ8000m峰に挑戦!」

テレビ東京の番組広告ページ

エベレストで永眠した登山家 栗城史多が伝えたかった事とは?

 

なぜテレ東がアンナプルナの時を選んで番組を作成したのかわからないですが、正直、何を伝えたかったのかサッパリわかりませんでした。

事前の番宣を見た限りでは、彼がエベレストで逝くまでの片鱗を客観的に見せてくれるものと期待していましたが…

ただ、何も知らない人が観ると、“出会った人たちに勇気を与えてくれた若者”に映ったと思います。これ自体は悪くないです。

彼の一連の(エベレストをはじめとするヒマラヤ高峰への)“挑戦”が身の丈に合ったものだったかどうかの検証がないことは良くないです。

ここがメディアの罪なところだと思います。

 

番組の締めくくりは、栗城氏の講演を聞いて、勇気をもらって、自分の思いや夢に向かって進んでいる方々のダイジェストがありました。

これも、他人に“一歩を踏み出す勇気”を与えたことは何ら問題はないでしょう。

しかしながら、(栗城氏が)荒唐無稽な“挑戦”で“勇気”を与えた方々にとって、彼は価値ある存在であり、(彼のような)荒唐無稽な“挑戦”をする人が増えてしまわないか心配になりました。

 

新しいことや難しいことに挑戦する際には危険がつきものですが、身の丈に合った目標を掲げることはとても重要なポイントです。

特に、身を危険に晒すような内容では、10回戦って10回生き残れる試合でないとダメです。

10回成功する必要はないですが、10回戦って9回生き残れるレベルではダメだと思っています。

1回の死が最初に来たら、そこですべて終わりになるので。

 

栗城氏の“挑戦”は、個人的な意見では、10回戦って2~3回生き残れるかどうかのレベルだったと感じています。

『挑戦の回数はもっと多いし、生きて帰ってきてたじゃないか』と言われるかもしれませんが、彼の一連の“挑戦”で、“戦い”にカウントしてよいのはせいぜい3回ぐらいではないかと。

登頂したかどうかで議論されているマナスルや、その次のダウラギリあたりは、当初の目標に掲げていた中継も何とかやろうとしていた痕跡がありましたし、それほど無茶苦茶な言動もなかったように思います。

やはり、エベレストを目指しだした頃から、何か違和感を覚えるようになりましたね。。。

 

番組の話からはだいぶ逸れてしまいましたが、いまだにモヤモヤした感覚が残っています。

前の2回分でいろいろと書きましたが、ここで七大陸最高峰について少し。

(順序が逆の気もしますがご容赦を)

 

栗城氏は、亡くなる前の数年は“世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂”のフレーズを(意図的かどうかはわかりませんが)ほとんど使っていませんでした。

ただ、エベレストの挑戦を始めた頃は“世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂”を目指すと明確に記載していました。

そもそも、この“世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂”の実現可能性について書きます。

 

各地で未だに議論は続いていますが、今のところ七大陸最高峰とされているのは以下の山々です。

 ◎エベレスト(8,848m、アジア最高峰)

 ◎アコンカグア(6,959m、南アメリカ最高峰)

 ◎デナリ(6,194m、北アメリカ最高峰)

 ◎キリマンジャロ(5,895m、アフリカ最高峰)

 ◎エルブルス(5,642m、ヨーロッパ最高峰)

 ◎ヴィンソン・マシフ(4,892m、南極最高峰)

 ◎コジオスコ(2,228m、オーストラリア最高峰)

「エルブルスがヨーロッパに属するのか?アジア圏では?」や、「“オーストラリア”ではなく“オーストララシア”としてプンチャック・ジャヤを最高峰とするべき」など、見解が分かれているようです。

エルブルスをアジア圏と見た場合のヨーロッパ最高峰はモンブラン(4,810m)、オーストララシアと見た場合の最高峰プンチャック・ジャヤ(4,884m)はニューギニア島にあります。

 

まず、「単独」の定義ですが、明確なルールがなく一般的な通例に基づいているのは登山関係者の方々が説明されていますが、一般的な概念は“ベースキャンプから先は他者のサポートを受けずに登る(登頂する)”こととされています。

エベレストのような高峰では氷河を通過しないといけない部分があるので、そういった箇所ではフィックスロープやハシゴなどが必要です。

ネパール側のベースキャンプからすぐのところに、クーンブ氷河と呼ばれる最初の関門があります。

クーンブ氷河、ネパール(ナショナルジオグラフィック)

国際山岳ガイドの方のお話では、「ネパール側から単独で登るには(クーンブ)氷河の攻略が問題で、ほとんどのクレバスを迂回して通らないと単独で登るのは無理。でも、クレバスを迂回して氷河を通過するのは現実的には不可能。」だそうです。

(ここを誰のサポートもなしで登るのは…)

フィックスロープやハシゴは氷河の上に設置しますが、当然のことながら固定する相手(氷河)は氷なので時々刻々と動いており、その時々で設置が必要で、単独ではない公募隊などの場合は隊のシェルパがこれらの作業(ルート工作)をサポートしてくれるそうです。

 

少しエベレストから離れますが、栗城氏が謳い文句にしていた“世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂”で、技術や体力以前に絶対的に不可能なことがあります。

上記の大陸最高峰のうち、キリマンジャロは現地ガイドの同伴が必須であり単独登山は認められていません

私はキリマンジャロに行ったことがないのでわかりませんが、“単独”の定義を守るために入山時だけガイド同伴で入山し、その後は(秘密で)単独行動するのが可能だとしても、それを許されるとは思えません。

キリマンジャロ山とは(沖本浩一さんのページ)

つまり、現地で定められている規則を破らなければ“世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂”は達成できません

例え、そういった形で達成できたとしても、それを公認されることはないでしょう。

 

今度はエベレストに戻ります。

昨年の12月にネパール政府が「エベレストの単独登山を禁止」と定めました。

エベレストの単独登山を禁止、安全対策で規制改定 ネパール(AFP通信)

今年の栗城氏の挑戦はネパール側からでしたので、エベレストでも規則を破らなければ“単独”登頂はできないことになります。

(チベット側からの単独入山は強制的なものではないそうで、チベット側からであれば単独登頂は達成できるようです)

 

技術的な側面や資金的な側面を抜きにして、達成しようとしていたことを追い求めれば、地元の政府や自治体が定めている規則や条例を破ることになり、倫理的な側面から見るとあり得ないことになります。

栗城氏が“世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂”と言い出した時点で、「技術面・体力面・資金面を抜きにして絶対にできない」と本人に指摘できていたら、(結果は同じだったとしても)ここまで最高に後味の悪い感じはなかったのかもしれません。

「たら・れば」の話で、今更…というところですが。

先週、「栗城史多氏について①」を書いたので、その続きを。

 

本日、下記のようなニュースを見ました。

BSジャパン、エベレストで滑落死の栗城史多さん追悼放送決定「その灯がこれからも続くよう願って」

記事内に、本番組に関してプロデューサーの“栗城さんの冒険スタイルを全面的に支持するということではありません”のコメントがあるのが気になるところです。

別にテレビ東京を批判するわけではないのですが、前知識のない状態で彼のドキュメント(例え客観性を最重要視した編集だとしても)を観れば、結果的に彼を称賛することになってしまう気がするのです。ここは視聴者の方々の知識と価値観に左右されるので、現時点では何とも言えません。

さらに付け加えると、栗城氏を称賛するな”とまでは言いませんが、“挑戦を続ける精神は素晴らしいが、事実と異なる発信をしたり、自分の技量を遥かに超える(実現不可能な)目標を掲げるのは良くない”ことはきちんと言い表すべきだと思います。

 

話は変わりますが、阿部雅龍さんという方が栗城氏について述べられた記事がありました。

登山家・栗城史多さんの死の意味を問う 冒険家の阿部雅龍さん

阿部雅龍さんのことはこの記事を見るまで知りませんでしたが、個人的には共感できる部分が多いです。

「冒険の共有」や「否定の壁をこわす」ことが彼の目指すべきところだったとしたら、その手段は登山でなくてもよかったと思います。

ただ、彼の経験や思いから登山を選択して、そこで目標をエベレストにしたのは彼自身です。

「支援者や広告代理店などスポンサーが彼を追い込んだ」との記事も目にしますが、1つ前のブログにも書いた通り、最終的な責任があるのは本人のみです。

“幼稚で極端な例えだ”と非難されるかもしれませんが、スポンサーが「限界に挑んで死んで来い」と言っていたとしても、エベレストに行ったのは彼の意思であり、責任は彼にあると思います。

 

根本的な部分の意見ですが、「冒険の共有」や「否定の壁をこわす」のであれば、もっと身近なところの成果でよかったのではないかと思います。

今でこそ登山も裾野が広いスポーツになりましたが、海外の山、しかもエベレストへ行くとなると一般の社会人は犠牲にするものが多すぎます。

登山に関係する職業に就いている人でも、海外の山へ登れる回数には限りがあるでしょうし、そんなに時間もお金も準備できないでしょう。

そうなるとスポンサーの存在が大きいですが、出資してもらうからには対価(見返りと言ってもいいでしょう)が必要です。

挑戦する目標が困難であればあるほど、必要な資金は多くなり、達成の可能性も低くなります。

 

私の勝手な推測ですが、栗城氏はエベレスト挑戦を始めた当初は本当に登頂に至る過程を多くの人と共有したいと考えていたのかもしれませんが、数年後には自分でも目標が何だかわからなくなっていたような気がします。

それは、多くの有識者の方々がコメントされている通り、エベレストに上るための準備があまりにもできていなかったところを見て思いました。

そうでなければ、「とりあえず難しそうなことを目標に掲げておけば失敗しても何とかなる」と考えていたのかもしれません。

最後の2~3年の“挑戦”は特にひどかったです。

少なくとも、エベレストに入山するためには費用が必要なので、その資金を何とかかき集めていたのでしょう。

いつしか、資金を集めてエベレストに入山することが(彼の中での)目標になっていたような感じです。

“BCにたどり着いて何かしら登山のアクションを起こせばよい”、、、そんな風に見えました。

「冒険の共有」や「否定の壁をこわす」といった真の目標(とされているもの)を見失っていたがために、今回のような悲劇を招いたのではないかと思います。

 

推測ではいろいろと浮かんでくるものの、今となっては真相は闇の中ですが。