先週、「栗城史多氏について①」を書いたので、その続きを。
本日、下記のようなニュースを見ました。
BSジャパン、エベレストで滑落死の栗城史多さん追悼放送決定「その灯がこれからも続くよう願って」
記事内に、本番組に関してプロデューサーの“栗城さんの冒険スタイルを全面的に支持するということではありません”のコメントがあるのが気になるところです。
別にテレビ東京を批判するわけではないのですが、前知識のない状態で彼のドキュメント(例え客観性を最重要視した編集だとしても)を観れば、結果的に彼を称賛することになってしまう気がするのです。ここは視聴者の方々の知識と価値観に左右されるので、現時点では何とも言えません。
さらに付け加えると、栗城氏を称賛するな”とまでは言いませんが、“挑戦を続ける精神は素晴らしいが、事実と異なる発信をしたり、自分の技量を遥かに超える(実現不可能な)目標を掲げるのは良くない”ことはきちんと言い表すべきだと思います。
話は変わりますが、阿部雅龍さんという方が栗城氏について述べられた記事がありました。
阿部雅龍さんのことはこの記事を見るまで知りませんでしたが、個人的には共感できる部分が多いです。
「冒険の共有」や「否定の壁をこわす」ことが彼の目指すべきところだったとしたら、その手段は登山でなくてもよかったと思います。
ただ、彼の経験や思いから登山を選択して、そこで目標をエベレストにしたのは彼自身です。
「支援者や広告代理店などスポンサーが彼を追い込んだ」との記事も目にしますが、1つ前のブログにも書いた通り、最終的な責任があるのは本人のみです。
“幼稚で極端な例えだ”と非難されるかもしれませんが、スポンサーが「限界に挑んで死んで来い」と言っていたとしても、エベレストに行ったのは彼の意思であり、責任は彼にあると思います。
根本的な部分の意見ですが、「冒険の共有」や「否定の壁をこわす」のであれば、もっと身近なところの成果でよかったのではないかと思います。
今でこそ登山も裾野が広いスポーツになりましたが、海外の山、しかもエベレストへ行くとなると一般の社会人は犠牲にするものが多すぎます。
登山に関係する職業に就いている人でも、海外の山へ登れる回数には限りがあるでしょうし、そんなに時間もお金も準備できないでしょう。
そうなるとスポンサーの存在が大きいですが、出資してもらうからには対価(見返りと言ってもいいでしょう)が必要です。
挑戦する目標が困難であればあるほど、必要な資金は多くなり、達成の可能性も低くなります。
私の勝手な推測ですが、栗城氏はエベレスト挑戦を始めた当初は本当に登頂に至る過程を多くの人と共有したいと考えていたのかもしれませんが、数年後には自分でも目標が何だかわからなくなっていたような気がします。
それは、多くの有識者の方々がコメントされている通り、エベレストに上るための準備があまりにもできていなかったところを見て思いました。
そうでなければ、「とりあえず難しそうなことを目標に掲げておけば失敗しても何とかなる」と考えていたのかもしれません。
最後の2~3年の“挑戦”は特にひどかったです。
少なくとも、エベレストに入山するためには費用が必要なので、その資金を何とかかき集めていたのでしょう。
いつしか、資金を集めてエベレストに入山することが(彼の中での)目標になっていたような感じです。
“BCにたどり着いて何かしら登山のアクションを起こせばよい”、、、そんな風に見えました。
「冒険の共有」や「否定の壁をこわす」といった真の目標(とされているもの)を見失っていたがために、今回のような悲劇を招いたのではないかと思います。
推測ではいろいろと浮かんでくるものの、今となっては真相は闇の中ですが。