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次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[ミニ天橋立は桜のトンネル]

私はこの二週間、「龍馬の土木監督出向道」の踏査を休止し、香川県内の桜の名所に出向いています。それは今年末から来年出版予定の「四国と近畿の絶景」(仮題)に掲載するからです。

 先週行ったのは東讃(香川県東部)随一の桜の名所「亀鶴公園」(さぬき市)。これは広大な溜め池の中に浮かぶ島(亀島)を堤で繋いだもので、その約250mの長さの堤に明治40年、染井吉野桜が植樹され、「讃岐百景」にも選出されました。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-桜の堤

四国全土的にはそれほど有名ではありませんが、桜の季節ともなると観光バスも立ち寄り、露店も出て、終日賑わいを見せます。この公園の良さは、細長い堤で繋がった島の景観にあります。桜の季節にはまさに「桜の橋立」となるのです。四国有数の「桜の絶景」と言えるでしょう。


この亀島の周囲には遊歩道が整備されているため、池面の彼方の風景を愛でながら散策できますが、島には25基もの古墳群が築造されています。一部、古墳散策路も整備されていますが、どれも皆羨道が開口していないので、景観的には「地面が大きく凸凹しているだけ」です。出土品も皆、所在が不明のため、築造年代を始め、一切のことが解明されていません。


ところで、この公園を本に掲載する場合、どうしても俯瞰写真が必要になります。そこで周囲の地形を地図上で調べたところ、南の中世の池内城跡がある台ケ山からならば、眺めがいいのではないかと思い、早速登ってみたところ、本丸跡や三角点設置箇所を始め、尾根上は皆、藪の密林。尚、この城跡は主郭と本丸の間の堀切は峠道として利用されており、全体がミニ霊場として整備され、あちこちに石仏が立ち並んでいます。但し、近年は人が訪れないせいか、荒れ放題。それでも峠の北西下に当時の井戸を発見できました。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-亀島と桜の橋立

そこで藪漕ぎをして東方道路に下りて、再度周囲を見渡したところ、本丸跡から北東に張り出した尾根の突端にその可能性を見出したので、畑沿いの藪化した道を辿って上がったところ、そこの尾根上も削平されたようになっていて、砦跡のような様相です。ここでも尾根の突端は藪ですが、倒木のある切り株に片足立ちして、なんとか当ブログ貼り付け写真を撮影できた次第です。


昨日は西讃地区の二箇所の桜の名所に行きましたが、その内の一箇所は前述書で「香川県一の絶景」として取上げる景勝地。但し、市販の旅行ガイド書ではその魅力は読者に十分に伝わっていません。そこも讃岐百景の一つなのですが、そこの魅力を伝えるには、一般の雑誌記者ではなく、探勝(景勝探訪)に卓越した者でないとできないのです。


[土佐勤王党によって斬首された吉田の首]

某Gトラベル内ブログをやっていた時は、「真・龍馬伝紀行」という記事を10日に一回ほど投稿していましたが、当ブログでも同じく、大河ドラマの「龍馬伝」を史実と比較して解説していきたいと思います。

前述のブログでは、龍馬が江戸に旅立った時歩いた土佐内の街道「土佐北街道」の峠や茶屋跡、平井収二郎が元服以降に転居した屋敷跡(NHKの「龍馬伝紀行」で紹介された史跡とは異なる)等を解説しましたが、今回は土佐勤王党員によって斬殺された土佐藩藩政、吉田東洋の最期について述べてみます。

 

まずは龍馬の脱藩から述べないといけませんが、藩政期、「脱藩」という言葉は存在していませんでした。その言葉は明治期に造られた言葉で、藩政期は「出奔」という言葉が用いられていました。このようなことを「龍馬伝」の脚本を書くまで、坂本龍馬が薩長同盟を締結させた史実さえ知らなかった歴史のど素人の脚本家が知る由はありません。

 

龍馬ファンなら誰でも知っていることですが、吉田東洋を武市半平太の指示により、暗殺した土佐勤王党員の三人の内の一人、那須信吾は龍馬が脱藩時、梼原の自宅に泊めて、龍馬を国境の韮ケ峠(にらがとう)まで道案内した人物です。龍馬と別れてから約二週間後に吉田東洋を暗殺しているのです。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-首を渡した観音堂

ドラマでは暗殺時、大雨が降っている設定でしたが、実際は小雨でした。その日東洋は高知城二の丸で藩主、山内豊範公に「日本外史」や「信長(しんちょう)記」を講義した後、酒を振舞われ、帰宅の途に着きました。その後、現在の追手前小学校東辺りで信吾らに襲われたのです。

ドラマでは三人の刺客に身体を貫かれ、東洋は果てていましたが、実際は斬首されています

 

信吾らは東洋の首を持って、かねてから打ち合わせていた、思案橋番所近くの観音堂へ行き、そこで首を同じく土佐勤王党員の河野敏鎌に渡します。この敏鎌も龍馬が脱藩時、高知市朝倉まで見送りに行っています。

 

敏鎌は翌日の早朝、東洋の首を思案橋西方の雁切札場に持って行き、立て札を立てて晒したのです。龍馬本の多くは、首を晒したのは「雁切河原」である旨記述していますが、通行人が多い場所でないと晒し首にする意味がありません。河原は飽くまで刑場であり、晒し首にする場所はその側の土佐三大街道の一つ、土佐西街道の札場だったのです。この土佐西街道こそ、現在、私が踏査している「龍馬の土木監督出向道」なのです。

 

東洋が暗殺された場所は龍馬伝紀行でも放送していたように、碑が建っていて、誰でも分かります。思案橋は現在、低いコンクリート欄干が残っていますが、側にあった観音堂は後世、交差点東に移転しました。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-思案橋欄干

龍馬が脱藩後、東洋暗殺の下手人として、疑われたことは事実ですが、信吾や敏鎌等、脱藩時に龍馬と関わった勤王党員が東洋暗殺にも関与していたことが影響したのかも知れません。

東洋暗殺後からその翌年の8月18日に京で「八月の政変」が起きるまでの約一年五ヶ月の間、土佐藩は武市半平太が牛耳ることになります。ドラマでは半平太が勤王党員を率いて上阪した際、住吉陣営で龍馬と会っていましたが、それは史実とは異なることです。来週の放送では、平井加尾と龍馬が再会することになっていますが、二人は脱藩後、一生再会することはありませんでした

 

以上のように、大河ドラマはあまりにも史実と異なる箇所が多いため、私の周囲の者は皆、酷評しています。龍馬が脱藩を決意したのは、長州萩で久坂玄瑞に会ったからである、という史実も一切描かれていません。が、私は龍馬研究家という立場上、見ない訳にはいかないのです。史実と異なる部分を伝えるためにも。

 

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[橘川~辻越跡]

市野瀬の次の集落は橘川で、入り口はY字路になっているので分かり易いのですが、その又の部分にはかつて常夜燈が建っていたと言います。今は祠の屋根のようなものが放置されてあるのみですが、恐らく、ゴミステーションをここに設置するにつき、撤去されたのでしょう。


車道はY字路なのですが、その自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-橘川の水路道 又の常夜燈奥には、水路に沿った自然の歩道が続いています。これが龍馬が通った頃の街道だと思われます。

街道は田の際を通り、酒店横に出ると車道に合流して、右折、左折とせわしく曲がり、集落を貫く主要道に合流します。


この道路もほどなく南に向きを変えて国道に出るのですが、その手前右手の三叉路に江藤新平関係者の捕縛地跡標石が立っています。新平はご存知、明治初期の自由民権運動家で佐賀県で「佐賀の乱」の首謀者となり、土佐に協力者を求めて来るのですが、新平本人は幡多から船で高知市浦戸湾に向かったとされています。


この集落には新平が滞在して、謝礼に金子を与えた家の伝承もあるのですが、関係者の伝承が新平本人とすり替わっているのでしょう。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-旧橘川橋の地蔵と道しめべ

国道を横断し、旧橘川橋を渡ると対岸の袂に地蔵と文化七年に設置された遍路道道標が残っています。地元の人等は、遍路道は北の大前橋から続いている旨、言いますが、それは昭和以降の話。大前橋が架橋される以前の往還は、橘川集落を通っていたのです。


道標に従い、斜め向かいの民家から右折しますが、この畑の法面沿いの街道は本来、途中から畑の中を斜めに横断していました。現在は法面をぐるぐる回って反転して車道に出ますが、北東の車道向いの墓下にまた自然の歩道が続いています。これこそ、街道の続きなのです


街道は築堤となって山際を進みますが、橘川と拳ノ川地区との境界の沢には、朽ちた木橋が架かっています。この道は小屋掛け左を過ぎると藪化しますが、常に街道は山際を走っているので、迷う可能性は低いでしょう。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-築堤となった街道

ほどなくまた道がきれいになりますが、すぐ国道のカーブ部に出ます。その先が 一里塚のあった辻越跡ですが、国道工事により、何メートルも掘り下げられているので、往時の面影はありません。

この日の踏査はここで時間オーバー。次の土日は東讃随一の桜の名所へ行ったり、写真展を撤収するついでに四国の三県の境界にある藩政時代後期の遍路道沿いの山へ登る予定です。それは今年後半若しくは来年出版予定の「四国の絶景」に掲載するためです。尚、当書には付録として山陽と近畿各県の絶景も収録予定です。

みなさん、坂本龍馬が生まれて初めて歩いた長距離街道をご存知でしょうか。それは龍馬が16歳時の嘉永三年、高知県四万十町の四万十川の土木工事采配役(現場監督)として出向いた土佐西街道です。この街道は龍馬が後年、江戸や長州へ行く際に歩いた土佐北街道(拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ~龍馬が辿った道Ⅱ~[ロンプ刊]を参照)と共に「土佐三大街道」の一つに数えられていますが、他の二つの街道とは違い、参勤交代道ではなかったことから、整備具合も劣り、現代に於いてはルートの何割かは定かではありません。


が、どの歴史研究家も挑まない廃れた長距離街道の踏査こそ、私の使命でもあるのです。土佐西街道の内、四万十町中村までは旧中村街道と呼称されていますが、その距離百数キロ。これを現時点で60数キロから70キロ位まで、踏査を終え、この間の祝日に黒潮町に入ったところです。尚、四万十町と黒潮町境界の山中の片坂峠には、梼原町にある脱藩道の松ケ峠(とう)番所跡に酷似した片坂峠番所跡がきれいな削平地として残っています。


当ブログでは踏査概要をリアルタイムに綴っていくので、起点(思案橋番所跡)から解説することはできませんが、とりあえずこの前の連休時に踏査した区間を簡単に解説しましょう。


[カロウト越~市野瀬常夜燈]

カロウト越とは四万十町峰ノ上と金上野との境界にあった峠で、昔は曲がりくねった坂道でしたが、現在では国道によって峠は10mほど掘り下げられているため、難なく通行できます。自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-カロウト越付近の古道

峠自体は消滅したカロウト越ですが、周囲の地形を見渡したところ、峠の南東付近に藩政期の古道が残っている可能性を見出し、擁壁が途切れた箇所から木々に掴まりながら、適当に斜面を上がると案の定、道跡らしき平坦地に出ました。


北上奥の平坦地は擁壁工事作業のために造られたものだと思いますが、南の方は昔のままの地形のようです。下って行くと思った通り、藩政期の古道が残っていました。ごく短い距離ですが、確実に龍馬が歩いているのですから、真の龍馬ファンなら辿るべきでしょう。

尚、カロウト越頂上部は旧窪川町屈指の人気の山「五在所ノ峰(大観峰)」登山口にもなっているため、登山愛好家は一時間少々登山を楽しむといいでしょう。山頂付近からは太平洋のパノラマが広がっています。登山コースの詳細は拙著「土佐のマイナー山part2」(ロンプ刊)を参照のこと。


僅かな距離の古道が国道に合流して以降は、所々東の谷間に私道や藪道となって街道は存続していますが、坂道が平坦になると「遍路道保存協力会」が設置した道標を見て左折します。中村街道は須崎市から黒潮町迄の多くが、遍路道と同一なのです。


道標からは緩やかな道路を片坂峠登山口のゴミ焼却場まで上がりますが、そこから2分も上れば峠の番所跡です。藩政期は峠の両側に土佐北街道の笹ヶ峰越にあったような傍木(国境標柱)がありましたが、今は番所跡の広場が残るのみです。


片坂は黒潮町側が急勾配だから名付けられた名称で、ジグザグに急下降していきますが、一部に石畳も残り、風情を感じます。自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-市野瀬常夜燈

峠道は国道を横断し、黒潮町市野瀬に下って行きますが、国道をまた横断した先の十字路には市野瀬常夜燈が残っています。が、これは明治以降に設置された可能性があります。藩政期の古道はその道路の西側を並行しており、十字路は通ってないからです。私が高知県内で確認した中では、昭和五十年代に設置された石灯篭タイプの常夜燈もあるのです。


次の日曜には、橘川常夜燈から踏査を始めます。

旧中村街道と龍馬の茶屋立ち寄りの伝承がある松山街道については、今年夏から秋に出版予定の「龍馬の土木監督出向道」で詳しくガイドしますが、また沿線のどこかの自治体施設で写真展を開催する予定です。

文中で触れた拙著は四国の大型書店で販売中ですが、全国の宮脇書店や明屋書店からも注文可。
















去年12月下旬から今日まで、グーグル検索件数32万件を超えた、坂本龍馬の新事実を元に構成された写真展が四国で開催されています。それは「四国龍馬街道写真展」です(検索された語句自体は「四国龍馬街道」)。

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-四国龍馬街道写真展ポスター

この言葉は私が'0811月、徳島県内に埋もれていた坂本龍馬に関する重要な伝承を発見し、その内容を調査していく過程が考えた造語です。


その伝承とは、龍馬は讃岐琴平の勤王家、日柳燕石(くさなぎえんせき)の邸に立ち寄った際、燕石の同志、美馬君田(みまくんでん)から徳島県美馬市の奉行兼藍商の鎌村熊太を紹介する旨の紹介状を受け取り、熊太邸に向かい、そこで後に龍馬がしたためることになる「船中八策」の元になる政策論を教示され、大枚の活動資金を付与され、熊太の下人の道案内で土佐まで帰った、というものでした。


そこで熊太の子孫の方に取材し、各種文献を調査した結果、これは龍馬が脱藩前の文久元年10月11日、自宅を発ち、翌年2月29日に帰って来るまでの出来事である、という結論に至ったのです。脱藩するのは文久2年3月24日ですから、まさに脱藩直前の出来事な訳です。


この旅は土佐勤王党主、武市瑞山(半平太)の指示で、四国や長州、関西諸藩の情勢を探る密命だったのですが、長州萩に滞在した時、久坂玄瑞との会談で脱藩を決意したことからも龍馬の運命の旅になったのでした。そしてその玄瑞から日柳燕石を紹介されたのでした。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-太平洋迄遠望できる権若峠

この四ヶ月の旅の内、龍馬が歩いた四国内の街道を「四国龍馬街道」と名付けたのです。具体的には龍馬の自宅から土佐北街道~讃岐街道~金毘羅参詣・丸亀道~同参詣・阿波道~同参詣・坊僧道~撫養街道~阿波北街道です。その総距離約280キロ。これを私は八ヶ月かけて往復踏査し、その成果を去年末ガイド書「大回遊!四国龍馬街道280キロ(龍馬が辿った道Ⅱ)」(ロンプ刊)として刊行するとともに、「四国龍馬街道写真展」をスタートさせたのです。


写真展は全ての市町村の街道写真以外に、砲台コーナーを設置し、四国各藩の砲台跡や第二次世界大戦時の帝国陸軍の山砲跡等も掲示しています。

更に写真以外の展示コーナーもあり、実物の幕末大砲の砲弾や陸軍の野戦砲の砲弾、幕末時製造の鉄製大砲模型、四国各藩の藩札や貨幣、勤王志士のフィギュア等もガラスケースに展示してあります。これらは全て私が全国から集めたものです。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-実物の幕末と昭和の大砲砲弾

写真展の入場は無料。これまで高知県大豊町での四国龍馬街道写真展「土佐大豊編」が終了し、現在、徳島県東みよし町の吉野川ハイウェイオアシス(TEL0883-79-5858)二階で「阿波東みよし編」が4/4(日)迄開催しています。この会場は高速(徳島自動車道)からゲートを出ることなく寄ることができるので便利。もちろん一般道からも進入できます。開催時間も9~20時と長く、会場横にはレストランや温泉、そばには遊覧船乗り場もあるので、観光や移動のついでに寄ることができます。


ガイド書は施設一階で販売されていますが、四国の大型書店にもあり。全国の宮脇書店と明屋書店からも注文可。

写真展やガイド書はこれまで、四国の三県の新聞やNHK(徳島)、登山雑誌「岳人」等で紹介されています。ガイド書では280キロの街道を徒歩で二週間かけて巡れるよう、踏破プランや各ポイントの宿泊施設や各種問い合わせ先を掲載しているので、誰でも龍馬の追体験ができます。


今年夏から秋にかけては「龍馬が辿った道」シリーズのⅢとⅣを刊行予定なので、また高知県下の、その「道」沿線の自治体施設で新たな写真展を開催することになると思います。

真の龍馬ファンを自称するなら、来たれ、四国へ!