坂本龍馬の土木監督出向道(1) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

みなさん、坂本龍馬が生まれて初めて歩いた長距離街道をご存知でしょうか。それは龍馬が16歳時の嘉永三年、高知県四万十町の四万十川の土木工事采配役(現場監督)として出向いた土佐西街道です。この街道は龍馬が後年、江戸や長州へ行く際に歩いた土佐北街道(拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ~龍馬が辿った道Ⅱ~[ロンプ刊]を参照)と共に「土佐三大街道」の一つに数えられていますが、他の二つの街道とは違い、参勤交代道ではなかったことから、整備具合も劣り、現代に於いてはルートの何割かは定かではありません。


が、どの歴史研究家も挑まない廃れた長距離街道の踏査こそ、私の使命でもあるのです。土佐西街道の内、四万十町中村までは旧中村街道と呼称されていますが、その距離百数キロ。これを現時点で60数キロから70キロ位まで、踏査を終え、この間の祝日に黒潮町に入ったところです。尚、四万十町と黒潮町境界の山中の片坂峠には、梼原町にある脱藩道の松ケ峠(とう)番所跡に酷似した片坂峠番所跡がきれいな削平地として残っています。


当ブログでは踏査概要をリアルタイムに綴っていくので、起点(思案橋番所跡)から解説することはできませんが、とりあえずこの前の連休時に踏査した区間を簡単に解説しましょう。


[カロウト越~市野瀬常夜燈]

カロウト越とは四万十町峰ノ上と金上野との境界にあった峠で、昔は曲がりくねった坂道でしたが、現在では国道によって峠は10mほど掘り下げられているため、難なく通行できます。自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-カロウト越付近の古道

峠自体は消滅したカロウト越ですが、周囲の地形を見渡したところ、峠の南東付近に藩政期の古道が残っている可能性を見出し、擁壁が途切れた箇所から木々に掴まりながら、適当に斜面を上がると案の定、道跡らしき平坦地に出ました。


北上奥の平坦地は擁壁工事作業のために造られたものだと思いますが、南の方は昔のままの地形のようです。下って行くと思った通り、藩政期の古道が残っていました。ごく短い距離ですが、確実に龍馬が歩いているのですから、真の龍馬ファンなら辿るべきでしょう。

尚、カロウト越頂上部は旧窪川町屈指の人気の山「五在所ノ峰(大観峰)」登山口にもなっているため、登山愛好家は一時間少々登山を楽しむといいでしょう。山頂付近からは太平洋のパノラマが広がっています。登山コースの詳細は拙著「土佐のマイナー山part2」(ロンプ刊)を参照のこと。


僅かな距離の古道が国道に合流して以降は、所々東の谷間に私道や藪道となって街道は存続していますが、坂道が平坦になると「遍路道保存協力会」が設置した道標を見て左折します。中村街道は須崎市から黒潮町迄の多くが、遍路道と同一なのです。


道標からは緩やかな道路を片坂峠登山口のゴミ焼却場まで上がりますが、そこから2分も上れば峠の番所跡です。藩政期は峠の両側に土佐北街道の笹ヶ峰越にあったような傍木(国境標柱)がありましたが、今は番所跡の広場が残るのみです。


片坂は黒潮町側が急勾配だから名付けられた名称で、ジグザグに急下降していきますが、一部に石畳も残り、風情を感じます。自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-市野瀬常夜燈

峠道は国道を横断し、黒潮町市野瀬に下って行きますが、国道をまた横断した先の十字路には市野瀬常夜燈が残っています。が、これは明治以降に設置された可能性があります。藩政期の古道はその道路の西側を並行しており、十字路は通ってないからです。私が高知県内で確認した中では、昭和五十年代に設置された石灯篭タイプの常夜燈もあるのです。


次の日曜には、橘川常夜燈から踏査を始めます。

旧中村街道と龍馬の茶屋立ち寄りの伝承がある松山街道については、今年夏から秋に出版予定の「龍馬の土木監督出向道」で詳しくガイドしますが、また沿線のどこかの自治体施設で写真展を開催する予定です。

文中で触れた拙著は四国の大型書店で販売中ですが、全国の宮脇書店や明屋書店からも注文可。