解明!坂本龍馬の新たな支援者宅 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

≪天正の陣での悲劇のヒーロー子孫≫

先日述べた、金子一族に関する古書が今日(金曜)届いたので、夕方から深夜0時まで、食事をするのも忘れ、その古書の内容と、当方所蔵の各文献との照らし合わせ作業を行っていた。



その結果、藩政期の高知城下家中図に於いて、坂本龍馬に活動資金を援助していた人物の邸宅と、その人物の高知に於ける初代先祖の屋敷を特定することができた。

その龍馬を支援していた人物とは、戦国時代、伊予・天正の陣で最も勇敢に戦って散った金子備後守元宅(もといえ)の長男・専太郎から数えて十二代目当主(実際に当主になったのは明治3)、金子鎰十郎家教。



備後守は秀吉の四国征伐の小早川軍との戦について、勝つ見込がないことは分かっていたが、長宗我部元親との「絆」を重んじ、同盟を組んでいた近隣城主たちと一丸になって戦い、皆、悉く討死した。


備後守には四男一女がいたが、皆、元親を頼って土佐へと逃れた。長男の幼名が自然、戦跡、ときどき龍馬-二代当主・金子傳十郎久宅邸 専太郎だが、専太郎だけは幼少時、人質として元親の元へ送られていた。が、元親と備後守は「絆」で結ばれていたこともあり、元親は専太郎をたいそう可愛がったという。

長女・かね姫は家臣に守られて専太郎を頼って、元親の元へと落ち延びて行った。



専太郎は元服すると金子弥右衛門宅明と名乗った。長宗我部氏の時代から山内氏時代へ移り、正保元年(1644)頃、宅明は30石、五人扶持で山内家に仕えることとなる。一方かね姫も山内家奥女中として仕えた。

かね姫は任を辞してからは宅明と共に金子橋東袂から東へ二軒目の屋敷で暮らし、晩年を送った。その橋はかね姫が所望して架橋されたという。架橋以来、その一帯の地名を「金子橋」と呼ぶようになった。



二代目傳十郎久宅は300石で馬廻に昇進する。幕末期は概ね200石~300石前後で推移している。五代目の頃、鏡川沿いに転居するが、居住していた前の屋敷跡の西半分の家地に、自由民権家として知られる馬場辰猪の先祖自然、戦跡、ときどき龍馬-十一代当主・金子驥之助邸 が移住してきている。

金子家は八代か九代目頃、更に転居し、帯屋町東端近くに移る。

十二代家教は勤王の志があったようで、龍馬以外の勤王志士にも活動資金を支援していたという。



家教は明治23年、東京に出ている。平成の直系子孫は埼玉県大宮市在住。龍馬との交流のことは代々子孫に口伝されてきたことである。また、古文書類「金子文書」も伝わっている。

金子氏の当初の屋敷跡は大体、現在の住宅地図でほぼ場所は確定済。二度目の転居先、つまり龍馬が幾度となく訪れていた屋敷跡も、明治から昭和中期までの各種地図で調べれば、大体の大まかな場所は分かるだろう。現地へはこの日曜に訪れる予定。



尚、二枚目の絵図写真では「金子藤之助」となっているが、これは絵図冊子「高知城下町読本」の編者である土佐史談会と高知市教委が、原図を見誤ったものであり、正しくは第十一代当主・金子驥()之助宅長である。そこが家教邸である。

その北に二軒目の小倉六右衛門宅は、よさこいのお馬が奉公していた屋敷。金子邸から北西にある吉田元吉は吉田東洋のこと。西端にある南会所には武市瑞山が切腹した牢屋があった。その南東の端にある乾退助は板垣退助のこと。

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