韮ケ峠ルート説を証明する人物~真実の坂本龍馬脱藩道27梼原町編(6) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

本当の坂本龍馬の脱藩の道ルートは、偽道標とは逆の北東に進み、すぐ現われる左手の谷の南沿いを上がる山道を進みます。このルートであれば宮野々番所を迂回でき、且つ、近道になります。



公的偽ルートが番所前を通過する遠回りルートになっているのは、史跡指定されている宮野々番所跡を脱藩追体験者に見せるためでしょう。しかし「嘘」はいけません。自然、戦跡、ときどき龍馬-真実の無名脱藩の道峠



前述の谷沿いの道は、ひょっとしたら上り口が分かりづらかったかも知れません。もし発見できなければ、日の口橋袂まで戻り、宮野々集落入口から北東に急角度で上がるコンクリート歩道に入ります。



この歩道は左、右とカミナリ状に急カーブを繰り返した後、やがて進路を北東に変え、山中に入って行き、数分以内で前述の谷沿いの山道に合流します。



この谷沿いの道も数分で早くも無名の峠に達します。麓の住民はこの峠道はもう藪に覆われている旨のことを話していましたが、藪は皆無。本人は数十年以上歩いてないため、推測で言っているのです。


以前も記述しましたが、どんな調査についても、地域住民のことを全て鵜呑みにしていたら、偉い目に遭います。



樹林帯を抜けると辺りが開け、一軒の民家下で沢を簡易橋で渡って左折します。普段人が通らない道だけに、その民家の犬がけたたましく吠えますが、噛みつかれることはないので、そのまま南西へと下って行きます。自然、戦跡、ときどき龍馬-廻り舞台手前の脱藩古道



畑の中を蛇行する小径を下って行っていると、前方の県道2号沿いに茅葺屋根の家屋が見えてきますが、それはかつて農村歌舞伎が開催されていた「宮野々廻り舞台」。



真・脱藩道は舞台斜め向かい辺りで県道に出て右折します。茶屋谷までは全て車道化されているのです。



途中の六丁地区は主要道の北に並行する狭い道路が旧道。旧道入口は四万川総合建設先のY字路

戦前は伊予へと行き交う人も多かったらしく、旧道沿いには山本屋旅館も残っていますが、旅館の西で四万川(しまがわ)橋を渡ると右折します。



龍馬ファンは気づかれたことと思いますが、「四万川」(河川名ではなく、昔の村名)は高松順蔵が記した脱藩古文書「関雄之助口供之事」に「四満川ヨリ韮ケ峠ニ至ル」として出てきます。「関雄之助」が沢村惣之丞の変名であることは以前解説したと思います。



この六丁集落は茶屋谷への道と伊予との国境・大茅峠や桜峠への道との分岐点にもなることから、昔はある程度栄えていました。自然、戦跡、ときどき龍馬-茶屋谷茶堂



数分で県道304号に合流し、1.5キロほど北進したところの「おぎのの橋」袂で県道と分かれ、そのまま本モ谷川(おもだにがわ)沿いの町道を進み、竜王橋袂から川を離れて行き、遂に「茶屋谷茶堂」に辿り着きます。龍馬らもこれからの峠道に備え、ここで小休止を取ったことでしょう。



この茶屋谷集落に文久二年当時22歳だった中岡利吉という青年がいたのですが、この利吉が龍馬一行を山中の番所・松ケ峠(まつがとう)番所まで案内したとされているのです。松ケ峠は韮ケ峠までのルート上にある峠。



これが脱藩古文書と共に韮ケ峠ルート説を裏付ける証拠になるのですが、龍馬が番所通過時に発した言葉を後世に伝えたのも利吉なのです。

旧来の九十九曲峠ルート説には、このような具体的な伝承は一切ありません。



本来のルートは茶堂西から北西へと上がっていましたが、皆、茶堂北の四叉路を西に折れて松ケ峠登山口へと進みます。私も不覚にも、茶堂西の古道踏査を忘れ、車道を辿ってしまいました。



その四叉路北西角には農家民宿「かまどや」があり、ここから一気に愛媛県へと歩き通す場合は丁度いい宿泊所となります。

このかまどやの経営者が中岡利吉子孫で、龍馬らが訪れたと思われる利吉邸跡は、民宿の東向いにあります。

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