常夜燈とはその名の通り、道行く人のためや、川の渡し場等に夜通し灯を灯しておくもので、大半が石燈籠タイプ。
四国では金毘羅講による寄進が目につきますが、変わったものでは、
道以外の交通関連の常夜燈では、要衝の港や港の上方の丘、船番所等に燈台として設置されるものがあり、これらは一般的な街道常夜燈より大きな造りとなっています。
金毘羅参詣道・阿波道にある番所前常夜燈。口銭とは、仲介手数料のことで、通行時の産物等の税を徴収していました。
坂本龍馬がここを通過したのは、脱藩一ヶ月前の文久二年(1862)二月半ば過ぎ。
龍馬は琴平の呑象楼で勤王家・美馬君田から阿波の豪商兼、徳島藩筆頭家老・稲田氏の家臣で山奉行の鎌村熊太を紹介する紹介状を受け取り、熊太邸に向う道中でした。
場所は須佐神社の入口。そこにある広場が番所跡です。さすがに番所の常夜燈だけに、一般の街道常夜燈より大きく重厚な自然石での造り。
常夜燈は火を扱うだけに、その素材は不燃性のものが適しており、そのため、大半が石燈籠タイプなのですが、なぜか四万十町にある金毘羅講寄進常夜燈は笠の部分以外は全て木造。
火袋(明かりが灯る部分)の側面には日燈窓(円形の窓)、他面には月燈窓(三日月型の窓)が開いており、風が強い日には火が燃え移りそうですが、昔はその窓の部分に行灯等に貼る和紙を接着していたことでしょう。
和紙が剥がれて火事にならないよう、集落の人が当番制で管理していたのではないでしょうか。
ここを龍馬が通ったのは嘉永三年(1850)。四万十川の堤普請のため出向した折でした。
龍馬が脱藩時に上陸した
もちろん、神社境内の常夜燈と言えども、飽くまで港に入る船の安全のために建立されたもの。
交通関係の石造常夜燈としては、恐らく山口県最大級と思われる、高さ7m25cmを誇ります。
三田尻港は長州藩の海の玄関口故、それに相応しいものと言えますが、現在、この燈台は萩往還関連遺跡として保存されています。
港の北には藩の海軍局があり、藩の要人と近藤長次郎等海援隊は、薩摩名義での藩船購入 について何度か交渉をもっていることもあり、文久三年以降も龍馬はこの地を訪れた可能性があります。
また、それとは別に薩長同盟に向けての薩 長会談実現のため、龍馬は何度も長州下関・関西間を往復しており、その間、三田尻港に寄港したことがあったやも知れません。
因みに、私がこれまで見てきた常夜燈の中で、素材を問わず最大だったのは、
その巨大さ故、10キロ以上離れた丸亀港沖を航行する船からの目印にもなっていました。
その近くに龍馬が滞在した芳橘楼や旧呑象楼跡もあることから、龍馬もこの高燈篭を見上げたことでしょう。
尚、金毘羅参詣道の阿波道や丸亀道の全容と龍馬関連史跡は拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」、防府市内の脱藩の道や龍馬関連史跡は「長州・龍馬脱藩道」を参照下さい。
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