忠臣蔵関連史跡(2)大石内蔵助祖父の城跡 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

大石内蔵助母・熊の実家は岡山藩筆頭家老32000石の池田家で、その父・由成は寛永九年(1632)に倉敷市の下津井城に入城します。が、七年後に幕命により廃城、以後、居館を児島天城に建設、「天城陣屋」と称します。ここは現在、天城高校のグランドになっています。

自然、戦跡、ときどき龍馬-水路道


熊は池田家より格下の大石家に嫁いでからも度々陣屋に戻り、大石家の厳しい財政への助力を池田家に求め、池田家もすすんで内蔵助等を支援しました。


内蔵助らの討ち入り時の池田家当主は熊の兄・由孝の子息の由勝でしたが、由孝、由勝も引き続き、熊の縁で大石家を支援しており、その繋がりで前回記したように、討ち入りに参加しなかった赤穂浪士の一部が由勝の給地である児島に移って来たのです。


尚、由勝は内蔵助らの討ち入り後、内蔵助らを支援していた責任を取る形で給地の内、2000石を幕府に返上しています。


天城陣屋跡は前述のように見るべき価値がないので、石垣や郭が残る下津井城跡を探訪するのですが、前回解説の赤穂井戸からは地元県民でも知らないような歩道のルートを私は探し出して辿っています。


まず赤穂井戸から歩道を南西に進むと、変形の四叉路に出ますが、そこに出ると少し引き返し、東の斜面の藪の中から歩道に下りてきている流水路を探します。そこが自然の歩道の上り口です。


流水路上部の藪を掻き分けると、きれいな水路管理歩道が現れるのです。水路に水はありません。


平坦な道ですが、途中、東側の眺望が開ける箇所があり、高架となっているJR瀬戸大橋線を見渡すことができます。自然、戦跡、ときどき龍馬-下津井城西の丸跡


ほどなくまた四叉路に出ますが、ここから先へは三ルートあります。南西の上り坂は新庄八幡宮参道ルートで、その参道を少し上がった所からも別路が分かれますが、上りのない楽なルートは、そのまま水路道を南下するコースです。


水路道はほどなく、阿津保育園北の車道に出るので、当然西に折れます。尚、私は翌日、下津井電鉄鉄道廃線跡の阿津駅跡から北を歩く際、この車道沿いに駐車し、歩いて行きました。


5分位で二車線道路に出て南下し、県道393号に出ると西に折れ、塔のある「ホテルレインボー」跡の西から南に折れて瀬戸大橋架橋記念公園内の歩道を下り、往路の下津井電鉄廃線跡を横切る陸橋を渡り、三叉路を東に折れると、そこが駐車場のある下津井城跡探訪コースの入口です。


遊歩道沿いには堀切や土塁等も残っていますが、階段を上がった突き当たりにあるのが二枚目画像の西の丸跡。画像では伝わりにくいかも知れませんが、実際にはかなり迫力があります。

自然、戦跡、ときどき龍馬-下津井城跡から見る瀬戸大橋


西の丸跡からは東に本丸跡、天守閣跡、三の丸跡を往復してみましょう。本丸跡手前は土橋のようになっています。全ての郭跡からは展望が広がり、瀬戸大橋と瀬戸内海も遠望できます。


西の丸跡に戻ると北西に下って行き、車道を横断、その先の道の休憩舎の手前から西に下りるミニ霊場参拝道を辿ります。


これを下って行くと下津井二丁目の集落に出て、南北に走る道路に至ると南に折れます。そこから3分ほどで下津井港です。


どうて゛す?下津井電鉄廃線跡の下津井駅跡から赤穂井戸を回遊したことになりますが、なかなか変化に富んだ面白いコースでしょう?私は戦跡本や坂本龍馬の街道本でも皆、こういう楽しいコース設定を心がけているのです。

詳細ガイドやコース図については、拙著「四国の鉄道廃線ハイキング」を参照下さい。

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