【書評】村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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現代日本文学を代表する作家村上春樹氏が36歳の若さで文壇最高峰の谷崎潤一郎賞を射止めた作品ぴかぴか(新しい)

なお30歳代での谷崎賞受賞者はノーベル文学賞作家の大江健三郎氏(『万延元年のフットボール』)と村上氏の二人だけです。

 世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。

さて同作品の評価に入るのだが、正直★4か★3で迷った。
というか、同作品は谷崎賞に相応しいと言われれば相応しい作品であるともいえるし、相応しくない作品であると言われれば相応しくない作品かもしれない。

つまり、何ともいえない作品である。

 ちなみに同作品の谷崎賞選評においては、遠藤周作が積極的反対、吉行淳之介が消極的反対、丹羽文雄が中間的立場、大江健三郎・丸谷才一が積極的賛成というところ。遠藤周作は次のように選評する。


 村上春樹氏の作品が受賞されたが、全員一致ではなかった。私はこの作品の欠点を主張し、受賞に反対した。この作品の欠点は三つある。

①三つの並行した物語の作品人物(たとえば女性)がまったく同型であって、対比もしくは対立がない、したがって二つの物語をなぜ並行させたのか、私にはまったくわからない。

②氏の中篇が持っていた「寂しさ」のような、読者の心にひびく何かが今度の長篇にはまったくない。それは物語を拡大しすぎたため、すべてが拡散したせいだと思う。私は読者の心にひびく何かがなければ文学作品は成立しないと思う(私の考えでは読者の無意識の元型を刺激しない作品は文学作品ではない)。

③氏の中篇にあった「寂しさ」が欠けているから、主人公の白常生活の描写が浮きあがっている。

 以上の理由で私はこの作品をどうしても奨す気持にはなれなかった。もちろん、氏の才能や力倆を評価した上でこの作品は氏にとって失敗作ではないかと思うのである。


 ところで私が一番好きな作家は村上春樹氏ではなく、この遠藤周作氏であるが、客観的に評価すれば、遠藤氏の選評のうち、①・③は同作品の欠点にはあたらないと私は思う。
 なぜなら、(1)「私」が作り出した「世界」の中で生きるのが「僕(影)」なのであるから、「私」の周囲にいる人々と「僕」の周囲にいる人々に共通性があるのは欠点にはあたらず、(2)日常生活の描写が浮かび上がらせるのは、残り少ない生や「世界の終り」へ向かう過程を鮮明化する点で効果的な役割を担っており、欠点どころか、良さであるからだ。

だが一方で遠藤氏は村上氏の本質的問題も突いている。

「私は読者の心にひびく何かがなければ文学作品は成立しないと思う(私の考えでは読者の無意識の元型を刺激しない作品は文学作品ではない)」

実に同意である。私が村上氏を好きになれない決定的理由はここにある。

そして、遠藤周作氏の最大の魅力はここにある。

 私は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は谷崎賞に相応しい作品であると思うが、谷崎賞受賞作にして遠藤氏の最高傑作である『沈黙』には遠く及ばぬ作品でもあると思う。

最後は好きな一節からぴかぴか(新しい)

「君を失うのはとてもつらい。しかし僕は君を愛しているし、大事なのはその気持のありようなんだ。それを不自然なものに変形させてまでして、君を手に入れたいとは思わない。それくらいならこの心を抱いたまま君を失う方がまだ耐えることができる」