うんちくコラムニストシリウスのブログ

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あれはどんな出来事だったのですか?せめてあなたにわかっていることだけでも、決してウソをつかず、飾りも隠しもしないで書いてくれなければ、私はなにも知ることができません。私はもちろん、あなたも、もう人生の時間は残り少ないのですから、ウソをいわず正直に生きて、その通りに書くこともして……終わってください。アカリが四国のお祖母ちゃんにいったように、しっかり元気を出して死ぬためにも、ウソでないことだけを、勇気を出して書いてください。

 同作品は、大江健三郎氏が義兄である伊丹十三氏の自殺後に書いた作品である。伊丹氏の自殺に関しては作中で巧みに動機が示唆されている。その自殺に至る(心中の)動機に関しては具体的に指摘する事はできるがあえて触れない。それこそが最大の魅力だからだ。

 他方で同作品の魅力は上記の点に留まらない。それはタイトル「取り替え子(チェンジリング)」である。「チェンジリング」とは、美しい赤ん坊が生まれると小鬼のような妖精が醜い子供と取り替えるというアイルランドの伝承であるのだが、「チェンジリング」の伝承と「義兄の自殺」を絡めることに同作品は見事に成功しており、かつその組み合わせが素晴らしいラストにしているのだ。

 改めて同作品を通して思ったのは、大江健三郎は「タイトル」を付けるのが天才的に上手い作家だと思う。

「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」「見るまえに跳べ」「われらの時代」「セヴンティーン」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「ピンチランナー調書」「新しい人よ眼ざめよ」…

 この独特なタイトルこそ、大江健三郎氏が優れた作家である最大の証左だと私は思う。

最後は義兄が理想の映画について語るシーンからぴかぴか(新しい)

 そこでおれはね、幾度も繰り返して見る必要のない映画を作りたい。一回こっきりの、新鮮な目ですべてを見てとれる映画を作りたいんだ。クローズアップを多用して観客に見るべきものを指図するというような、セコイことはしないよ。画面いっぱいに、その情景の全体をまるごと撮るのが、原則だ。そして映画を見る人間みなに、シーンの細部全体をしっかり見てとれる時間をあたえる。
(188頁)
現代日本文学を代表する作家村上春樹氏が36歳の若さで文壇最高峰の谷崎潤一郎賞を射止めた作品ぴかぴか(新しい)

なお30歳代での谷崎賞受賞者はノーベル文学賞作家の大江健三郎氏(『万延元年のフットボール』)と村上氏の二人だけです。

 世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。

さて同作品の評価に入るのだが、正直★4か★3で迷った。
というか、同作品は谷崎賞に相応しいと言われれば相応しい作品であるともいえるし、相応しくない作品であると言われれば相応しくない作品かもしれない。

つまり、何ともいえない作品である。

 ちなみに同作品の谷崎賞選評においては、遠藤周作が積極的反対、吉行淳之介が消極的反対、丹羽文雄が中間的立場、大江健三郎・丸谷才一が積極的賛成というところ。遠藤周作は次のように選評する。


 村上春樹氏の作品が受賞されたが、全員一致ではなかった。私はこの作品の欠点を主張し、受賞に反対した。この作品の欠点は三つある。

①三つの並行した物語の作品人物(たとえば女性)がまったく同型であって、対比もしくは対立がない、したがって二つの物語をなぜ並行させたのか、私にはまったくわからない。

②氏の中篇が持っていた「寂しさ」のような、読者の心にひびく何かが今度の長篇にはまったくない。それは物語を拡大しすぎたため、すべてが拡散したせいだと思う。私は読者の心にひびく何かがなければ文学作品は成立しないと思う(私の考えでは読者の無意識の元型を刺激しない作品は文学作品ではない)。

③氏の中篇にあった「寂しさ」が欠けているから、主人公の白常生活の描写が浮きあがっている。

 以上の理由で私はこの作品をどうしても奨す気持にはなれなかった。もちろん、氏の才能や力倆を評価した上でこの作品は氏にとって失敗作ではないかと思うのである。


 ところで私が一番好きな作家は村上春樹氏ではなく、この遠藤周作氏であるが、客観的に評価すれば、遠藤氏の選評のうち、①・③は同作品の欠点にはあたらないと私は思う。
 なぜなら、(1)「私」が作り出した「世界」の中で生きるのが「僕(影)」なのであるから、「私」の周囲にいる人々と「僕」の周囲にいる人々に共通性があるのは欠点にはあたらず、(2)日常生活の描写が浮かび上がらせるのは、残り少ない生や「世界の終り」へ向かう過程を鮮明化する点で効果的な役割を担っており、欠点どころか、良さであるからだ。

だが一方で遠藤氏は村上氏の本質的問題も突いている。

「私は読者の心にひびく何かがなければ文学作品は成立しないと思う(私の考えでは読者の無意識の元型を刺激しない作品は文学作品ではない)」

実に同意である。私が村上氏を好きになれない決定的理由はここにある。

そして、遠藤周作氏の最大の魅力はここにある。

 私は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は谷崎賞に相応しい作品であると思うが、谷崎賞受賞作にして遠藤氏の最高傑作である『沈黙』には遠く及ばぬ作品でもあると思う。

最後は好きな一節からぴかぴか(新しい)

「君を失うのはとてもつらい。しかし僕は君を愛しているし、大事なのはその気持のありようなんだ。それを不自然なものに変形させてまでして、君を手に入れたいとは思わない。それくらいならこの心を抱いたまま君を失う方がまだ耐えることができる」
芸人きっての読書王ピース又吉が絶賛してたので読んでみた。

「山井が死刑なのは、時代だよ」

と、死刑制度や生命の重さ、なぜ人は殺人を犯すのかといった事が主題なのだが…

正直、法学部生かつ本格小説好きの私としては、物足りなさだけが残った小説でした。

ぶっちゃけ「だから何?それで?」みたいな物足りなさ。

小説に限らず、死刑制度をめぐっては昔から同作品が訴えるような主題が話にのぼるだけに、いかんせん使い古された主題の感が否めなかった。

訴えかける主題はそれはそれで大切な事だけれど、現代の「死刑小説」を書くにおいては、それだけじゃダメだと私は思う。

最後は気に入った一節からぴかぴか(新しい)

 全体の傾向は、やはり拡大だ。拡大には、積み上げていく「善」だけでなく、無駄を破壊する「悪」がいる。この二つがバランス良く並び、拡大が進む。

 犯罪的な人間は、その「悪」が変形し、捻じ曲がってしまった 亜種ではないだろうか。DNAの意志は「善」だけではない。原人の遺跡から見つかったように、人間が人間を手斧で殺して火を殺して以来、どれだけ非難されても、殺人はずっとある。いわば伝統的な、人間の傾向の一つだ。拡大の目的の「悪」が変形し、そういう亜種となり、無意味として、無意味なことを行ってしまう。形あるものにひっついた、余分な欠片となってしまう。だがそれも、生物の、人間の根本的な構造から生じてしまったのではないだろうか。この根本の、軌道修正は可能か。

 しかし包丁も、他人のつくったものだ。他人のつくったものに内面が具体化されるとは、たまらない。
(104-105頁)