589冊目 充たされざる者/カズオ・イシグロ | ヘタな読書も数撃ちゃ当る

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ある日突然ブンガクに目覚めた無学なオッサンが、古今東西、名作から駄作まで一心不乱に濫読し一丁前に書評を書き評価までしちゃっているブログです

「充たされざる者」カズオ・イシグロ著・・・★★★★

世界的ピアニストのライダーは、あるヨーロッパの町に降り立った。「木曜の夕べ」という催しで演奏する予定のようだが、日程や演目さえ彼には定かでない。ただ、演奏会は町の「危機」を乗り越えるための最後の望みのようで、一部市民の期待は限りなく高い。ライダーはそれとなく詳細を探るが、奇妙な相談をもちかける市民たちが次々と邪魔に入り…。実験的手法を駆使し、悪夢のような不条理を紡ぐブッカー賞作家の問題作。

 

先日読んだカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」の書評を書きINDEXを編集した時、はたと気付いた。

昔読んだはずの同著者の「充たされざる者」と「わたしたちが孤児だったころ」の書評が無い!

確かに読んだ記憶はあるのだが、何故無いのか?

もしかしたら、このブログを始める前に読んでいたのかもしれない。

イシグロの書評は全部書いておきたいので、今回再読してみた。

 

しかし、読んでみたらストーリーは全く記憶が無く、初読みたいなもんだった。(x_x;)

 

読み終わり、思わずため息と笑いが漏れた。

 

この作品を一言で言い表せば「カフカ的不条理小説」である。

カフカの「城」や「審判」のような感じ。

時間と空間は歪み、主人公(ライダー)と数々の登場人物とは話が噛み合わず、親子関係もあやふやで、予定は狂いまくり、ライダー自身の来訪目的でさえ定かでは無くなる。

 

イギリス最高の文学賞「ブッカー賞」を受賞した前作の「日の名残り」やそれ以前の作品とは180°違う作風である。

 

訳者あとがきによれば評価も二分したようで「とにかく長すぎる」(日本版で上下巻795ページ)、「退屈」といった批判と「勇気ある挑戦」「これまでで最高の傑作」という称賛まで、さまざまだったようである。

 イシグロ本人は「ブッカー賞受賞によってようやくほんとうに書きたいことが書ける自由を獲得したいま、この第四作こそが最高の自信作」だと言いきったそうである。

 

確かに、本作は人により評価が分かれるのも頷けるが、私はカフカ的不条理小説が大好物なので「次の展開はどうなるんだろう?」とページを捲るのももどかしく、ワクワクしながら一気読みだった。

「わたしを離さないで」のように2度3度と読み返したくなるような作品ではないが、イシグロ作品の中で異彩を放ち、重要な作品である事は確かであるように思う。

 

本作の原題は「The Unconsoled」である。

調べてみると「console」は「慰める」「慰問する」の意味で、それに否定形の「un」と過去形の「d」がつくから「慰めなかった」「慰問しなかった」という意味なのか?

確かに、主人公のライダーは慰問できていない。

同時に、邦題である”充たされざる者”でもあり、題も秀逸である。

 

次作の「わたしたちが孤児だったころ」にも俄然興味が湧いてきた。

こちらも又、全く違う作風を持った作品である。

 

まあ、その前に次に読む本は全く違う作風の作家なのだが。。。( ̄_ ̄ i)