新年に思う、明治とは過ちの始まり~帝國が犯した罪は消えず~ | 儂は悪くないぞ!松平が!松平の奴が悪いンだ!

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 2016年末は安倍首相の真珠湾慰霊から日も経たない内に、稲田防衛大臣が靖国神社へ参拝するという慰霊に水を差すような事態が起こってしまった。
 これによって米中韓を初めとする世界各国から一時的なパフォーマンスではと疑惑の目を向けられるようになってしまった。
 たったそれだけのことで・・・と思われるかもしれないが、今までの行いが行いだけに、これは仕方がないと言える。
 少し前にも日本がユネスコの分担金を支払ったが、下記のような経緯があったようだ。
http://digital.asahi.com/articles/ASJDJ5Q1RJDJUTFK00P.html?rm=453

『また、分担金の分担率1位の米国が支払い停止を続けており、分担率2位の日本が保留を続けた場合、3位の中国が実質的にトップとなる。中国の影響力が増す一方、日本の発言力が低下する懸念があることも考慮した。

 外交筋によると、ユネスコ事務局は、通常は日本が4~5月に支払う分担金が受け取れないため資金不足に陥っており、外部の借入金を増やしている。利子がかさめば、結果的に加盟国の負担が増加。今秋のユネスコ執行委員会では、名指しこそ避けたものの、分担金未払いの国に早期支払いを促す決議が採択された。

 政府はこうした事情を勘案し、「年をまたぐと加盟国からそっぽを向かれ、日本にとってマイナス面が大きすぎる」(政府関係者)との結論に達した。

 ただ、自民党内からは「ユネスコ事務局の対応に変化がないのに、支払う理由がない」という声が出ている。とりわけ日本が再三求めている、記憶遺産に登録された南京事件の記録公開にユネスコ側が応じていないことへの不満が根強い。日中韓などの民間団体が今年、旧日本軍の慰安婦に関する資料の記憶遺産登録を申請したことを受け、「圧力を維持する必要がある」との主張もある。』引用終わり
 この記事では伝わらないかもしれないが、産経新聞や、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)、幸福の科学などの右派宗教団体機関紙では、南京事件や従軍慰安婦は存在しなかったと主張している。こういった似非日本人にも困ったものだ。まあ、こんな連中は何時の時代にもいるものだ。過去の日本にも多くいた。

 さて、来年は明治維新から百五十年経つそうだそうだが、明治政府は社格を制定し、政府にとって邪魔な神社を強引な神社合祀を行うことによって潰した。また、その過程で皇政の根幹たる記紀を否定した。
 特に従来の神社を合祀などで減らす一方で、逆に南朝忠臣への贈位、南朝の君臣を祀る神社の創建をし、政府の政策として南朝の君臣を顕彰していく。
 それは富国強兵政策を実現するための国民教化政策として、忠君愛国思想を涵養する第一歩であった。
 明治時代初期には、江戸時代から続いてきた考証史学に基づく実証史学が、西欧の近代史学研究法と結びついた近代歴史学的、国定教科書を採用していた。
 この文明的な国定教科書は、明治44年(1911年)1月19日大逆事件の翌日から、南朝正統を訴える読売新聞、早稲田大学講師の松平康国、牧野謙次郎、代議士の藤沢元造、国民党の犬養毅他八十八名の凶徒らに、南北両朝併立の事実を明記した事を批判された。
 これら凶徒に押される形で、明治44年(1911年)2月27日、この文明的な教科書は禁書となってしまった。
 以後、南朝が正統になり、北朝は余剰の閏となった。南北朝時代は吉野朝時代に書き換わり、北朝天皇は全て歴史から抹消された。
 この歴史を修正するという大いなる過ちが、後の誤った戦争への第一歩であった。
 修正後の教科書に、突如として現れた南朝正統論は、当時、林羅山や一条兼香らに批判された水戸光圀の大日本史からきている。
 この大日本史は光圀の大日本私史というのが相応しい書で、源義経が生きて蝦夷地や大陸に渡ったなどの妄説は、この書物から始まっている。
 なぜ、義経が生きて蝦夷地に渡らなければならなかったのかというと、寛文年間に蝦夷地でアイヌの反乱が続いたので、アイヌを慰撫し同化政策を以って民族浄化をする為に、東北で流行っていた民間伝承を利用した。
 義経は生き延びてアイヌになり、長として導いたという伝説が作られ、その為に蝦夷地で義経神社も作られた。
 それを真似て、明治には義経が大陸に渡り、チンギス・カンになったという話になり、満洲国に義経神社が作られ、清和源氏の義経が笹竜胆を家紋にするという失笑ものの事態となった。(清和源氏では家康に仕えた石川氏など、主に源氏を仮冒する後世の武士達が笹竜胆を家紋にしている)
 このように明治とは第二次世界大戦という大いなる過ちの先駆けの時代であり、こうして道を誤った日本帝国は誤った精神性に基づき世界に禍を撒き散らした。まさに大日本史は全ての過ちの始まりといえる書物であった。 
 現代日本、平成の御代でも明治時代後期に現れたような右傾教科書が問題になっていて、首相夫人の安倍昭恵が五箇条の誓文や教育勅語を暗誦する幼稚園や小学校の名誉校長を勤めている時代だ。
 また、日本が過ちを犯すかどうかの節目にきているのかもしれない。

 歴史といえば昨年秋に歴史学者でもあった崇仁さんが亡くなったことに衝撃を受けた。何故かと言うと、亡くなる1,2ヶ月前に三の丸尚蔵館で幾つかの事柄で雑談をし、何れ伺う約束をしていたからだ。
 話した内容は大したことではないが、三笠宮家は何故靖国神社参拝を続けるのか?という事と、神武、欠史八代など歴史についての質問、最後に南京虐殺について話あった。

 まず、何故、靖国参拝を続けるのかということについては、それは館内で話すには微妙な内容で、話すにしても長くなるから、一度に宮邸で話そうということになった。
 次の歴史関係については少し興味を持ってくださったようだが、確かにありえるかもしれないが、仮説の域を出ないから、事実としては認めるわけにはいかないということであった。これも今度、宮邸にきて、じっくり話そうということになった。
 最後に南京虐殺についての個人的意見として、強姦や輪姦、略奪、放火によって家を焼かれるなど、明日の生活さえも危うくなった人々がいる。この殺害に至らなくとも命を失うに等しい被害を受けた方達も犠牲者として捉える為に、 私は虐殺という呼称に拘るより、南京事件の呼称の方が良いのではと、また、それによって、どう足掻いても犠牲者は40万を越えるだろうから、これで無意味に犠牲者数の問題で難癖をつける者達もいなくなるのでは?と個人的意見をぶつけてみた。
 そんな私の未熟な意見に対して崇仁さんは明確に答えてくれた。要約すれば、確かに、その方が良いかもしれないが、しかし、例え一人でも惨たらしく殺されれば虐殺であり人数は関係がない。
 南京事件では、軍人、民衆を含む中国人達が皇軍によって惨たらしく殺されたという事実が矮小化されてしまう。故に南京事件という呼称よりは、南京虐殺乃至、南京大虐殺が妥当であるということをおっしゃられた。
 これも後で、もう少しゆっくり話そうといわれたので、はいと返事をした後、腹部に差し込みが!実は、この日は便秘気味で便所に何時間籠もっても出ない・・・しかし、展示の最終日だったので仕方がなく我慢して出かけたのだ。
 急な便意に急かされ尚蔵館を後にした。近くにトイレはないので御苑にあるトイレ目指して軽く走ってる内に放屁したら、途端に腹回りが楽になった。小さい音だったので周囲には聞こえてなかったようだが、近くに人がいなかったとはいえ申し訳ない。
 さて、当日、崇仁さんは車椅子を使っていたので女性皇族が車椅子を押していた。そう、今回、三の丸尚蔵館で話したことは彼女も聞いている。
 例え自分の死後、日本が道を誤る選択をとろうとしても、その頃には降嫁しているであろう彼女が過ちを正してくれるものと信じている。いや、若い頃は色々と自由な発言をしていた娘さんだから、降嫁せずとも、権力者達が再び国民を犠牲にするような過ちを行うことを見過ごすはずはなかろう。自分より若くて健康的且つ聡明な子に同席して貰い、この話を一緒に聞いてもらえたことを、この上ない幸いであり、未来への希望だと私は思う。
 
 恐ろしい事だが、ネット右翼など一部の者は、未だに南京虐殺や慰安婦、そして731部隊が人体実験をやったことは嘘だと主張しているそうだ。
 731部隊に関してはGHQが機密文書公開しているのだが、そういった連中には認知されない。(宗教的理由で脳が理解することを拒否しているのか?)
 逆に右翼の陰謀論であるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの資料が生長の家過激派の高橋史朗が根城にしている明星大学で見つかったと主張する。勿論、高橋達のデッチ上げなのだが。
 昔、夕方に731部隊が不法投棄したかもしれない不発弾が中国で見つかったというニュースが流れた。事実関係は忘れたが、この毒ガス弾は、多分731部隊関連ではないだろう。何故なら、日本軍は普通に国際法に反する毒ガス弾を大量に保持しており、終戦後、国内にあるものを隠蔽するのに困ったほどだ。1995年に屈斜路湖に投棄されていたことが判明した毒ガス弾は有名だろう。
 その時、以前から疑問に思っていた731部隊は人体実験とかしたのに捕まらなかったのは何故なの?と聞いたら、アメリカに実験の成果を渡す取引をしたからだと教えてくれた。徳真さんや、宣仁さんがいうにはアメリカに一部実験はアメリカに渡って日本人医学者主導で続けられたという。
 そのあと興奮した口調で二人が、竹田はくだらない真似をしおってとか、自己保身の為に味方を売った陸軍はだらしがない(普段、平和がとか口走る癖に宣仁は海軍贔屓で海軍が絡むと甘かった。これに比べたら徳真さんは言論上では平和主義者だった)とか言い出した。
 すると裕仁さんが、そうかな?私は朝香宮や竹田宮が隠さないで全てを喋ってくれて良かったと思うよ。二人が隠さないで率先して喋ったから、下の者達も躊躇することなく米軍に話せただろうし、それによって南京や731部隊のことが、こうして表沙汰になった。
 もし、お前達がいうように二人が機密を守って喋らなかったどうなっただろうか?今頃、支那で恐ろしいことが起こったんじゃないかな?
 もしかして、お前達、なにか隠しているんじゃないだろうね?と裕仁さんが問いかけたら、特に隠している事はなかったのだが、いや隠していることなど何もなかったからこそ、二人は困惑し何も喋れなかった。
 すでに夕飯が用意されて食事時なのに部屋に張り詰めた空気が流れた。沈黙を破ったのは裕仁さんだった。
 さあ、飯にしようか飯、飯と何時にない砕けた口調を、普段は見ることはない焦った表情を浮かべつつ、少し冷や汗をかきながら、ぎこちなく喋る姿を見て、この人でも焦る事があるんだなと印象に残っている。
 家に初めて来た時より喋るようになったとはいえ、酒が入らなければ落ち着いて喋る人だった。こんな風になったのは、これともう一回くらいしか記憶にない。
 どうやら本人としては、何か隠しているのではと問い詰めた事は冗談の積りだったらしいのだが、二人は冗談として受け取らなかった。
 裕仁さんがブツブツ冗談、冗談なんだからと、か細くいうと二人が驚かせよってとか、真顔で冗談いう奴がいるかとか毒づいたことを憶えている。
 これは笑い話だったけど、これとは別に南京虐殺について真面目に質問をしたことがある。
 何故、質問をしたのかというとお盆の頃、朝日新聞に南京虐殺について記事が載っていたのだが、そこには犠牲者が30万説とか10万説とか、果てには数千人説と、虐殺自体がが無かったという説が、それぞれを支持する学者の名前と一緒に書かれていた。
 なんで、こんなに意見が分かれるのかと小学生の私には理解できなかったので、以前、南京の事を口にしていたことを憶えていたから聞いてみたのだ。
 宣仁や徳真さんは何人死んだかはわからないが軽く10万は越えるだろう。なかったってことは絶対無いぞ、それは頭のおかしい奴らがいってることだというのだが、普段から口の悪い二人だ、なんとなく納得できなかった。(因みに去年(2015年)明仁さんに聞いたときは30万でも足りない40万はいくんじゃないかと答えた。)
 だからこそ、この人から納得のいく人数を聞きたかったのだが(この人数に拘ってしまうあたり小学生らしいと笑ってくれ)返ってきた答えたこうだった。
 笑いながら南京で殺された人数?そんなどうでもいいことを聞いてどうするの?いいかい何人殺したかなんて関係ないんだ。それは歴史学者がきめることなんだからね。どうでもいいよ。
 でもね、日本は中国にとても許されないことをしてしまったんだよ。だからね、無かっただなんて馬鹿なことは二度と口にするんじゃないよ。
 それとね、いいかい、絶対に中国と、いや他の国もだ、戦争をするんじゃないよ。と諭された。皆で思わず拍手してしまったけど、攻められても駄目なのと聞いたら、そりゃあ、攻めてきたらしょうがないね。でも、おまえは戦わないで逃げなさい。命を無駄にすることはないからというので、それは無責任じゃないかと他の大人(誰だったか記憶が曖昧)にいわれたら、どうせ戦争を起すのは彼らでしょ、どうせ勝てないんだから、今度、負けたら人に頭を下げさせないで自分達で責任をとればいい。そんな無責任な連中の為に死ななくていいよ。みんな逃げなさいと澄ました顔でいった。無責任という言葉が気に触ったのか、そこだけ少し感情が入ったのが印象的だった。
 以上のように裕仁、宣仁、崇仁、明仁と戦中に生きていた皇族が南京で虐殺はあったといっているのに、南京で虐殺はなかったと妄言を未だに主張し続ける戦後生まれの者達は、一体、どこの国の民族なのだろうか?多分、彼らが自称し、そして愛して止まない呼称である大和民族ではないと思う。

 本年が、明治の過ちと同じ轍を踏むような年にならぬよう願いを込めて、明けましてお目出度うございます。